KOBECCO(月刊 神戸っ子) 2022年2月号
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はじまりは古道具屋三代目がデザインを確立─創業者はどんな方でしたか。耕一 初代の良助は美濃の川島(現在の各務原市)の農家の長男で、訳あって神戸に出て仕事を探し、目めはし端が利いたのでしょう、居留地内のイギリスの商館の雑用係になりました。そのうちに商館の不要品を居留地の外に持って出て商うようになり、元町1丁目の裏通りに道具店を開いたのが明治5年(1872)です。外国人は基本的に居留地や雑居地の外に出られませんでしたから、外の世界と取り次いでいたみたいです。─そこから家具へ。耕一 そういった仕事の中で、家具が特に商売になったのでしょうね。母国へ帰るなど商館で不要になった家具を修理して売っていたのがはじまりです。それと同時に、テーブルセットで椅子が1脚足りないといったような複製のニーズも発生し、そこから製造がはじまっているんです。─どなたが作ったのですか。耕一 当時たまたま奥さん(つれ合い)の遠縁に和船の船大工をしていたのがいて、洋船に変わっていく中で仕事を失っていたので、お願いして作りはじめました。明治10年(1877)頃ですのでどなたかに教えてもらう訳にもいかず、分解して構造を確認しながら試行錯誤の作業だったのでしょう。箱物は日本古来の指物の技術をベースにしていたみたいです。泰資 明治15年頃のガイドブック的な文献に家具屋が数軒紹介されているので、当時家具の需要が伸びていたようです。創業5年で製造までいったのは、それだけニーズがあったからでしょうね。耕一 開港した街は5か所あり、それぞれで家具屋は発生していますが、消費地がないと続かないですよね。泰資 神戸は需要が特殊で、阪神間では日本人も洋館を建てたり洋間を設けたりして、しかもその期間が長かったのでオーダーメイドの神戸家具が続いていったのでしょうね、大量生産に流れることなく。─二代目はどんな方でしたか。耕一 二代目の永田良介は信州・伊那の出身で、もともと靴屋でしたが、初代良助に見込まれ店を継ぎました。ものすごくバイタリティーのある人で、開発する能力が高く、商売が広がっていきました。船の家具や装飾をやりはじめたのも二代目で1906(明治39)年、イギリスへ送られるカップボードが写る。永田良介商店前にて31

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