KOBECCO(月刊 神戸っ子) 2022年2月号
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菊原静男播磨が生んだ天才エンジニア…菊原静男の功績神戸偉人伝外伝 〜知られざる偉業〜㉒前編〝播磨のサムライ〞誕生かつて〝5人のサムライ〞と呼ばれた日本屈指の航空技術者がいた。その一人、菊原静男(1906〜1991年)は、兵庫県姫路市の商家の長男として生まれ育った。「新しいことに挑戦したい」と東京大学工学部航空学科へ進学。卒業後は地元・兵庫へ戻り、神戸市で創業した航空機メーカー「川西航空機」(現新明和工業=本社・宝塚市)へ就職する。このとき面接で川西龍三社長からこう釘をさされた。「先行きはどうなるか分からない。飛行機は大変だぞ」と。だが、この言葉が逆に菊原の闘争心を燃えあがらせた。「問題は難しいほど面白い!」技術者を志した頃から、こんな強い信念をもっていた菊原は、迷わず川西航空機に就職する。その後、前途多難の道を切り開きながら、世界の航空技術者が、誰も到達できなかった〝伝説の航空エンジニア〞へと登り詰めていくのだ。それにしても、菊原は、なぜ川西航空機を就職先に選んだのか。その理由が、ノンフィクション「日本の名機をつくったサムライたち」(前間孝則著)の中で明かされている。理由は「実家から近かったから」。何とも牧歌的だ。川西航空機の創業者は、前回の連載でとりあげた、神戸市生まれの実業家で、飛行機開発に憑りつかれた川西龍三だ。菊原をはじめ日本の無類の航空機好きたちが、神戸の地に航空機開発の拠点を興した龍三の元に集結してきたのは、偶然ではなく、必然だったのかもしれない。菊原が故郷を職場に選んだ理由は、もう一つ。これも牧歌的で「海が大好きだったから」。彼は幼い頃から自宅近くの播磨灘の海でよく泳いでいたという。水上機への憧憬空と海…。このふたつを繋ぐ環境に恵まれた立地にあったのが、まさに川西航空機だった。ここから、菊原は傑作機と呼ばれる水上機や飛行艇を世に送り出していくことになる。菊原が、東大で卒業研究に選122

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