KOBECCO(月刊 神戸っ子) 2022年2月号
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存在もそう思わせます。山口地区の名来は江戸時代まで「千足」とよばれていて、皇子の母、小おたらしひめ足媛と関係があるとかないとか。あるいは当時の習慣から乳母ゆかりの地名を皇子につけたそうで、乳母が地元の人だから「有間皇子」となったという説も。また、現在は有野に鎮座する有間神社も当時は名来にあり、舒明・孝徳両天皇もお詣りしたそうです。で、有間行幸の目的は療養ではないかと。儀礼や朝廷の権威誇示という見解もあるようですが、権力闘争が絶えない中、天皇が長期間都を留守にする、つまり政治的空白というリスクに代え難いのは、そりゃ天皇の健康でしょう。医療が未熟な飛鳥時代、体の調子を整える温泉はクスリみたいなもの。飛鳥でクスリ…「♪迷わ〜ずに〜」温泉行きを断行したのでしょうか。とは言え、天皇がやって来て湯に浸かったことがすなわち有馬温泉のはじまりではなく、その前に地元の人が見つけて、その情報が都に伝わって行幸に結びついたと考えるのが自然ですよね。実は、信憑性が高いとされる鎌倉末期の『釈日本紀』に、「摂津風土記」の記事として「有馬郡に塩原山があり、その近くに塩湯があって昔、難波宮から孝徳天皇が行幸された。その発見された時代は、土地の人たちはその時の天皇の名を知らぬが、嶋の大臣の時であることだけは知っていた」という内容が載ってます。「嶋の大臣」とは蘇我馬子で、大臣任期は572年〜626年です。まとめると、有馬温泉は6世紀はじめには発見されていて、飛鳥時代に舒明天皇・孝徳天皇が入浴したというのが真実のようです。なお、舒明天皇は最初の、孝徳天皇は2回目の遣唐使を送り出しましたが、そのことが次回に繋がってきますので、それまでお行儀よくお待ちください。※読みは「くち」「くむち」「こうち」と諸説あり有間神社115

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