KOBECCO(月刊 神戸っ子) 2022年2月号
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有馬温泉の本当の起源と天皇の行幸 飛鳥時代語り調子でザッと読み流す、湯の街有馬のヒストリー。有馬温泉史略有馬温泉史略第二席まずは前回のおさらい。有馬温泉の起源は、神様コンビがたまたま傷ついた三羽の烏が湧き出ている赤い水を浴びてケガを癒やしていたところに遭遇、それが温泉だった。はい、それでよろしいですね。え?伝説で誤魔化すなって?本当はいつ見つかったのかって?ヘーヘーホーホー、わかりましたわかりました。今回はもう少しリアルな有馬開湯のお話を。有馬温泉の文献上のデビューはご存知『日本書紀』で、舒じょめい明天皇のところに「三年秋九月丁巳朔乙亥幸干摂津国有間温湯、冬十二月丙戌朔戊戌天皇至自温湯」とあるのが最初の記述。「有馬」は「有間」と記していたようですね。この「三年」というのは西暦631年で、舒明天皇はその7年後に再訪。さらに647年に孝徳天皇も有馬温泉へ行ったとも記録されています。とは言え「行幸」ですから、知事がヴェルファイヤでワーケーションへ行くのとは訳が違います。多数のお伴の者を引き連れ、現地にお宮を造営して、言わばプチ遷都みたいなもんです。孝徳天皇の有間行幸の際、地元の山の木を伐採してお宮を建てたという記録があり、その木が良かったもんだから天皇が喜んで「功くち地山」(※)と名付けたという説も。そんな由緒ある土地に「北六甲台」とか無味乾燥な名前を付けてしまうあたり、文教都市を自称する西宮市の文化レベルも知れたもんですなぁ。で、そのお宮はどこだったかというと、これは想像ですが、有馬温泉まで山道の上り坂、材木をえっちらおっちら運んだというのは合理的じゃないので、功地山の近く、現在の西宮市山口地区に建てて「ここをキャンプ地とする」って感じで、そこから有馬温泉へ通ったんじゃないでしょうか。ほんで、この人の話は長くなるので割愛しますが、孝徳天皇の皇子、有ありまのみこ間皇子の114

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