KOBECCO(月刊 神戸っ子)2022年1月号
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S-2以外、宇宙開発において世界の最先端を行く米露中にも存在しないのだ。2013年6月、元アナウンサーの辛坊治郎さんら二人が乗ったヨットが太平洋横断中に転覆。US-2が救助に向かったニュースが世を賑わした。これまでUS-2の存在を知らなかった人々も、改めて日本が誇る飛行艇の航空技術、救難技術の高さを認識したのではないか。なぜなら、US-2でなければ、この救出劇は成功しなかったといわれているのだから…。天国で、龍三はきっと満足げに、かつ誇らしげにこのニュースを見ていたに違いない。飛行機開発に夢を懸け、何度もゼロからの出発に挑んだ龍三の信念は100年経っても色褪せていない。=終わり(次回は菊原静男)(戸津井康之)で失われた…》だが、龍三には、「誰からも期待されない中で米軍を震え上がらせた紫電改の開発を成功させた自信」があった。またしても、「零からの出発か…」。龍三はそう思ったが、飛行機に懸ける夢はあきらめてはいなかった。明朗に和して1947年。龍三は新会社を立上げ、再出発する決意を固める。会社の名前は「明和工業」(1960年、新明和工業へと社名変更)。明と和…。龍三は自分の好きな言葉を合わせて社名をつくった。「明朗に和していこう」という願いを込めて。飛行機に取りつかれた龍三には新たな野望があった。「海洋大国・日本には海上を自在に飛行できる高性能な救難飛行艇が絶対に必要である…」。1953年、龍三はこの新型飛行艇開発に向け、国産の飛行艇開発プロジェクトをスタートさせた。川西航空機時代から培ってきた水上機や飛行艇開発の技術を磨き上げ、遂に1974年、新明和工業は「US-1型救難飛行艇」の初飛行に成功する。1955年に龍三が亡くなってから20年の月日が過ぎていたが、長年の彼の悲願は叶ったのだ。同機は海上自衛隊の海難救助機として活躍し、2004年からは、その改良型「US-2」が運用されている。大ヒットした連載漫画「US‐2救難飛行艇開発物語」には新明和の技術者たちの研究開発へ懸ける苦闘の日々が描かれている。US-2の性能は現在も世界一と言われる。波の高さ3メートルでも着水可能な飛行艇は、このU129

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