KOBECCO(月刊 神戸っ子) 2021年11月号
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たが、「僕のレパートリーなんか1ヵ月で終わる!大変な世界だ!」と気づきました。当時、オペラは原語での公演が当たり前でした。フランス語、イタリア語、ドイツ語。言語の問題は大きかった。楽譜は共通なのにね。1992年、フランス国立ボルドー管弦楽団の指揮者になり、オペラの仕事が増えました。勉強は大変だけど、指揮ができることが嬉しくてね、本当に楽しかった。言葉は今もほんと大変。(笑)。れ。そこに演出家と指揮者も入る共同作業です。僕はそこが面白い。オーケストラには「楽譜」がある。全員共通の大まかな目指す音は、あるわけです。そこから細かく自分たちの音を作っていく。演出家もいない。衣装もない。シンプルだけど濃密な真剣勝負です。オペラは総合芸術なんですね。そういうことです。オーケストラがいる、ソリストがいる、合唱団がいる、お芝居がある、衣装がいる、セットがある。照明はテンポに合わせて1小節ごとに変わることもあるし、音に合わせてグラデーションをかけることもある。すごいでしょ。舞台に立つ人だけじゃない、舞台の後ろに150人位います。見えない人がたくさん動いています。初めてオペラを指揮したのは?本格的に振ったのは、国際コンクールで優勝してから。30歳を過ぎてからです。「蝶々夫人」でした。オペラの指揮台は憧れでしたから嬉しかった。関西二期会との舞台でしたが、二期会からは多くのチャンスをもらいました。実は19歳の時に、副指揮者として採用してもらったんです。僕はその頃フルート専攻の学生でしたが、指揮者になりたくてね。ある時「魔笛」の練習を見学させてもらったんです。その時に思いがけないやりとりがあって、僧侶の役で男性コーラスとして舞台に立ちました。指揮者志望なのに?(笑)。そう。ラッキーだったんですよ。見学と言っても、僕は背が高いから視界に入った。音楽を学ぶ学生だった。で、楽譜を読むのが早いし、歌える。結局6年半、勉強させてもらいました。小澤征爾さん、井上道義さん、松井隆司さん、尾高忠明さん、錚々たる先輩方のアシスタントもさせて頂きました。すごく大きな経験です。オペラのレパートリーも増やしていきました。その後、ウィーンに留学し、年に100本ほどオペラを観まし30

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