KOBECCO(月刊 神戸っ子) 2021年10月号
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「明朗にやろう」第二次世界大戦で激戦地となった沖縄では県民の4人に1人が命を落としている。大阪から〝戦中最後の沖縄県知事〞として赴任した島田叡は「一人でも多くの命を救おう」と着任早々、次々と行動に出る。困窮する食糧確保のため、単身、台湾に乗り込み米を調達したり、疎開を促進したりするなど「県民の命を守るため」に可能な限りの施作を考え、陣頭指揮を執る。神戸で生まれ育ち、東大を出てキャリアとなった島田の知事としての在任期間はわずか5カ月。だが、10万人以上の命を救った島田を、今も多くの沖縄県民が慕い、その生きざまは代々語り継がれている。「何よりも明朗にやろう!」着任早々、島田は集まった県の職員たちにこう訓示した。米軍上陸間近の緊迫した状況下、こんな場違いとも思える島田の明るさに、逆に職員たちはこう悟ったという。「新しい知事は死ぬ覚悟で沖縄へやって来たのだ」と。そして自分たちもこう覚悟した。「この人となら運命を共にできる」と。那覇市の県庁を離れ、南へ南へ…と島田は県民を引き連れ、南の塹壕に設けた〝臨時県庁〞を転々とした。しかし、どれだけ避難しようと米軍の包囲網から逃れることはできない…。塹壕では食料も尽き、島田は「生き残った県民の命を守るため」に最後の決断を下す。「今をもって沖縄県庁を解散する!」こう宣言し、彼は塹壕を出て行った…。別れの際、彼は職員たちにはこんな言葉を伝えて回った。「皆は投降してくれ。米軍は殺しはしないから…」と。「皆は生きてくれ」島田の人生を描いたドキュメンタリー映画「生きろ 島田叡―戦中最後の沖縄県知事―」が今年公開された。その中で、元県庁職員、山里和江さんはこんな証言をしている。島田から「君は生きるんだよ」と言われたが、彼女は当時、「その言葉の意味が理解できなかった」と言う。なぜなら、そんなことを「私は何としても沖縄県民を守らねばならない」…島田叡の魂は風化せず神戸偉人伝外伝 〜知られざる偉業〜⑱後編108

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