KOBECCO(月刊 神戸っ子) 2021年7月号
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今村 欣史書 ・ 六車明峰連載エッセイ/喫茶店の書斎から   「触媒のうた」余滴、「天秤」「これは書かないでくださいよ」と言われていた話。宮崎修二朗翁が生前に語ってくださった秘話である。赤裸々に書けば傷つく人があるということだった。だけどもうそろそろ許されるでしょう。とはいっても、聞いたすべてを書くわけにはいかない。いつも宮崎翁が言っておられたように、わたしの耳にフィルターをかけて。昔、神戸から「天秤」という雑誌が出ていた。足立巻一先生や宮崎修二朗先生が力のこもった作品を発表しておられた同人誌である。その「天秤」の終刊に際してのこと。「天秤」には借財があったのだという。しかし終えるについては後始末をつけなければならない。その工面を宮崎翁が懇意にしておられた作家の田辺聖子さんにお願いしたのだと。翁が所持していた島崎藤村の直筆掛け軸を50万円で買ってもらったというのだ。田辺さんはそれが特に欲しかったというわけではない。なので、「困っているぼくたちを助けてくださったんです。だから掛け軸はそのお礼として差し上げた、という形なんです」。田辺さんは大阪文学学校で足立先生の教えを受けておられる。宮崎先生には幾たびもの旅行を経験させてもらっておられる。そしてこの時、すでに売れっ子作家になっておられたのだ。この話は足立先生と宮崎先生しか知らなかったことなのだろう。その「天秤」。何の会だったか、いつのことだったか、どこだったか覚えがない。随分昔のことである。その会が終わって部屋を出たところのテーブルに、バックナンバーがズラリと並べて置かれてあった。「自由にお持ち帰りください」と書かれて。詩を書き始めてまだ間もないころのことで、わたしには遠慮があった。何冊でも欲しかったが、新参者のくせに図々しいと思われないかと思い、29号、31号の二冊だけを戴いて帰った。B5版の上質紙による立派な冊子である。表紙にはどちらも津高和一の抽象画。遠慮したことをわたしはのちに悔やんだ。もっと厚かましく、もらえるだけもらっておけばよかったと。その二冊には、後年、河出書房新社から出版され文部大臣芸術選奨を受けることになる足立先生の「やちまた」の連載が載っていて、本には掲載されなかった貴重な写真がたくさん載っている。司馬遼太郎も読んでいた宮崎先生の力作「ある俘囚の記録」もたっぷりとした分量。経費がかかるわ94

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