KOBECCO(月刊 神戸っ子) 2021年7月号
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内の中学校ではブラスバンド部に入り、フレンチホルンを担当。府立の高校ではサッカーに打ち込んだ。そして神戸大学教育学部へ進学し、落語と出合う。「新入生となり、友人と大学構内の階段に座って昼食のサンドイッチを食べていたら、着物姿の上級生が近づいてきて、『そんな所に座っていないで、落語を見に来ないか。見ながらサンドイッチを食べたらいいから』と誘ってくれたんです。落語研究会(落研)の先輩でした」初めて高座に触れ、落語に興味を抱き、「次の日から落語を見ようと、一人で落研の部室へ通っていました」と振り返る。高座名は「甲家楽破」(かぶとやらっぱ)。「中学時代にフレンチホルンを吹いていましたからね」とにやり。〝六甲おろし〟のタイガース党にもちなんで…。次第に、落語の魅力にのめり込み、教員志望はいつしか落語家志望へと変わっていた。憧れていた落語家、桂吉朝の弟子入りを志願するも、「弟子は取らない主義」と何度も断られた。粘りに粘ってようやく弟子入りを果し、卒業したら吉朝の師匠、米朝の付き人となって本格的に修業する…。こう決まった矢先、1995年1月17日、阪神・淡路大震災が発生。米朝師匠に頼み、1カ月間、弟子入りの猶予期間をもらう。「在学中からボランティア(児童対象のキャンプ活動など)に参加していたことから、1カ月間、王子公園の被災者支援の施設でボランティアスタッフをすることに決めたのです」そして同年3月から3年間、米朝の下で付き人として修業した。「師匠の故郷である姫路には、何度も車を運転し、通いました。今は師匠のお墓もあります。姫路は、私や米朝一門にとって、特別な場所なんです」それだけに、「今回の舞台は姫路公演があると聞いて、いつも以上に、より力が入っているんです。〝ええもん届けます!〟。師匠のためにも…」と意欲を語る。コロナ禍を乗り越えてコロナ禍、「お客さんの前で演じられないことがこんなにつらいことなのか、と思い知らされました。しばらく落語の練習をする気持ちにもなれませんでした」と打ち明ける。だが、大学時代に、「落語は自分の生涯の仕事」と決めた。「寄席の客席で見られようが、見られまいが、そんなことに関係なく落語をしたい…」。そう思い立つと、すぐに行動を起こした。「自宅近くの武庫川の土手へ行き、三脚を立てて、その前で落語をしたんです。その様子を動画で撮影し、ユーチューブで配信しました。着物を着て寄席で落語をするのではなく、私服姿で…」好きな落語はどんな格好でも、どこでもできる、という思いを込め。48

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