先生の臨時アシスタントをするため、先生の泊まっていた宿へ呼ばれたんです。複数の編集者も一緒に来ていて、何本かの連載原稿を仕上げた後、先生にこう言われました。『編集者に内緒でもう一本書かないといけないから』。先生は部屋の灯りを消し、電気スタンドの上から布団をかぶって、一本分仕上げたんですよ」こんな、妥協を知らない〝漫画の神様〞から学んだ弟子たちのその後の活躍ぶりから、師匠から継承された創作魂のDNAが、日本の多くの漫画家たちに脈々と受け継がれ、日本の漫画やアニメが、今も世界の人々を魅了しているのだと理解できる。「最後まで努力をするってのが、本当の生き甲斐ではないでしょうか」。手塚の言葉はいつの時代、どんな仕事にも通じる叱咤激励の声に聞こえる。=後編へ続く。 戸津井康之く際、資料探しに行き詰ったという。当時の「写真はほとんど焼けてしまってなかった」からだ。「私が、子ども時代、学生時代に遊んだ神戸の姿の記憶をほじくり返して描くことがほとんどでした」と言う。それでも、彼が漫画家人生の晩年になってこの作品を描いたのは、「目の黒いうちに、戦争の記憶を描き残しておきたかった」という思いと、戦争を体験した漫画家として、「子孫のためにもそうしなければならない義務があるように思った」からだった。独自の世界観を持て「漫画から漫画の勉強をするのはやめなさい。一流の映画を見ろ、一流の音楽を聞け、一流の芝居を見ろ、一流の本を読め。そして、それから自分の世界を作れ」自分のことを〝漫画の神様〞と慕う者たちへ、手塚はこんなメッセージを残している。手塚の下で修業し、その後、活躍した〝弟子〞は多い。神戸市出身の横山光輝氏がベストセラーの長編「三国志」で、寺沢武一氏がハリウッド大作を彷彿とさせる「コブラ」で唯一無二の独自の世界観を築いたのは、こんな師匠の言葉を実践したからに他ならないだろう。そんな手塚のアシスタントたちが、こんな壮絶な体験秘話を明かしている。「当時、アシスタントは仕事場の床の上で寝転び、数時間でも睡眠がとれればいい方。でも、辛いとは思いませんでした」と話し、皆がこう続ける。「手塚先生が一番働いていたから。仕事場にこもり、自宅に帰るのは一週間に一度ぐらいでした…」と。「銀河鉄道999」などで知られる漫画家、松本零士氏に取材した際に聞いた話にも驚愕した。当時、福岡県在住の高校生だった松本氏の自宅へ手塚から、突然、こんな電報が来る。〈テツタイコウ テツカ(手伝い請う 手塚)」〉「出張で福岡へ来ていた手塚117
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