KOBECCO(月刊 神戸っ子) 2021年6月号
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たり、そんな時代でしたね。―絵で生きていくと決意されたのはいつ頃ですか。絵で生きる、というか、僕は生きてる限り絵を描くって思ってましたから。多くの編集者との出会いがあったわけですが、僕にとっては、最初に拾ってくれた堀内誠一さんとの出会いが絶大なリボリューションでした。勤めていた店に堀内さんが訪ねてきて、僕の絵を担いで帰っちゃって。次の日に電話がかかってきて、「今さ、『平凡パンチ女性版』(後の『an・an』)の創刊号を作ってるんだけど、君の絵、カラーで載せていい?」って。うれしかったなあ。『POPEyE』も『BRUTUS』も『olive』も、堀内さんがいなければ生まれてなかったんだもの。カメラマンもたくさん育てていて、大倉舜二、沢渡朔、立木義浩、篠山紀信とかね。そんな面々と堀内さんに交じって新宿の飲み屋に連れてってもらったりしてた。僕なんかまだ、19歳かそこらで、彼らの隣でコーラ飲んでた。―伝説的な時代ですね。あの頃、『平凡パンチ』で活躍されていた宇野亜喜良さんや横尾忠則さんは、僕にとってはスーパースターですよ。実は僕、20歳くらいのとき、横尾さんのアトリエに絵を見てもらいに行ったの。無断でね、窓からのぞいてたら、横尾さんが「君は誰だ?」って。でも結局、「玄関から入ってきなさい」って中に入れてくれてね、絵を見て「面白いね」って言ってもらったんだよ。和田誠さんやいろんな先輩がかわいがってくれて、僕に舞台を与えてくださった。すべて、出会いですよね。ぼくはラッキーです。―絵本への道は、どういうきっかけだったのですか。これもね、世界文化社の人が僕の絵を気に入ってくれて。岸田衿子さんが文の『ゆきむすめ』がデビュー作でした。それも出会いだなあ。―何処か人を引き付ける魅力があったのでしょうね。絵がね、僕を助けてくれてるって、僕はいまだに思ってるんです。20代の頃は出版社に行くと、「絵はいいけど、ひどい恰好だな」と言われたり、お金もなかった。でも絵さえ描いてれば、腹減ってるのも忘れちゃう。絵は、そうね、僕なりに自信があったんでしょうね。絵が僕を助けてくれる、だから別に怖くないって。僕にとって絵は、そういう存在ですよね。コロナ禍もずっと旅を続けている。―新作『北守将軍と三人兄弟の医者』は、思い入れのある作品だそうですね。実は賢治作品のなかで一番好き。ずいぶん前にも漫画で描いたことがあったんです。ミキハウスから出てるこの宮沢賢治の絵本シリーズは、第一冊めの『注文の多い料理店』を僕が描いて、様々なユニークなイラストレーター達が参加して、31

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