KOBECCO(月刊 神戸っ子) 2021年3月号
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も、その内バラバラになってどこかに消えていった。いつもなら沢山車が走っている広い通りも全く車の姿がなかった。妻と無言の内に波のように盛り上った道路を用心深く歩きながら三宮方面に向った。車の音も人の声もなく、眠ったような静かな街は不気味だった。どこをどう歩いたかあまり記憶がないが、船の乗客だと思われる人達の後をなんとなくついて歩いていた。妻と交す言葉もいつの間にか絶えていた。どのくらい歩いたか検討もつかなかったが、その内、自然に車道から離れて狭い道を歩いていた。ここに来るまでほとんど人影もまばらだったのに、急に大勢の人がいる街の一角に出てしまった。まるで年末の商店街に出会わしたようだった。港からここまではほとんど人に会わなかった美術家横尾 忠則神戸で始まって 神戸で終る ⑭地震の惨状から眼が離されないままの一日だった。記憶の中の神戸の街がテレビに映される度に身を削られる想いがして、仕事が手につかない日が何日も続いた。とにかく、神戸へ行こうと決心して、妻と向かった。新幹線は大阪から先には行かなかった。神戸に行く手段は、大阪の南港からフェリーでしか辿り着けないことがわかった。大阪から神戸に向う船から眺める六甲山の麓の神戸の街は普段と変わらないように思えた。それが次第に神戸港、メリケン波止場に着いて初めて、地震の生々しい爪跡が眼に飛び込んできた。神戸の地を踏む第一歩は、すでに亀裂の走ったコンクリートが、逆波を立てているように盛り上っていた。波止場の突堤を歩く船の乗客1995年1月17日の早朝、誰からか電話がかかってきた。「神戸が地震で大変なことになっている。すぐテレビを見て下さい」。テレビの画面には上空のヘリから撮った神戸の街のあちこちから火の手が上って煙がたちこめている、信じられないような悲しい光景が映し出されている。早速、妻の妹の家に妻が電話をするが、電話が不通になっていて通じない。この時テレビで映された上空からの俯瞰風景と、そっくりの光景を数日前、新宿の高層ビルから東京の街を眺めている時に幻視したのを思い出した。その時、僕はこの東京の街が壊滅する幻影を想像した。その想像がそのままテレビの中の神戸とそっくりだったことに驚いた。この日は、テレビに映されるTadanori Yokoo撮影 筆者16

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