KOBECCO(月刊 神戸っ子) 2021年2月号
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すると、大きなズレがあるように思っていたので、なかなか自分の仕事に自信がもてなかった。このことは大阪のナショナル宣伝研究所に入っても変わらなかった。まあ、大した自信もないまま、ナショナル宣伝研究所の東京進出に便乗したまま、東京という大舞台に喰み込まれていったのである。神戸新聞に入る切っ掛けも奇跡的な縁の出会いによって、現実に大きい穴が開けられた結果、そこに運命という川が流れ込んで、しかるべき場所に身体ごと運ばれた。自分の意志とは全く無関係に、何かの意志の働きによって、成るように成らされたというしかない。神戸新聞に辿り着くまでも、紆余曲折があったが、自分の意志とは無関係に次々と理不尽な運命のいたずらに翻弄されながら、たど美術家横尾 忠則神戸で始まって 神戸で終る ⑬卒の若者になぜ花形デザインであるポスターの仕事を与えられたのかは、どう考えてもわからなかった。幸運の女神に愛されたとしかいいようがないが、他の社内のデザイナーのように専門学校の経歴もなく、また年季の入ったキャリアーのあるデザイナーがゴロゴロいるというのに、「なぜ?」と考えても明解な答えは出せなかった。運がよかったとしかいいようがない。しかも、神戸でNO.1という灘本唯人さんが高く評価してくれて、神戸のデザイナー集団の中でも最前線に押し上げてくれた。このような状況がなければ、僕は多分、どこにでもいるサラリーマンデザイナーで終っていたと思うし、むしろ、そんな立場を望んでいたのかも知れない。自分の実力は与えられた立場と比較5年ばかり住みなれた神戸を離れて、東京に移ることになったが、この5年間の神戸時代を、この辺で、もう一度回想してみたい。郷里の西脇高校を出て、神戸新聞社に入社したのが1956年、20才の時。23歳でグラフィックデザイナーの登竜門である日宣美に入賞、会員に推挙。ここまではまだアマチュア的なデザイナーで、これといった野望も野心もない、その日が楽しければ、それで充分満足している、やや極楽トンボ的などこにでもいる呑気な若者のひとりだった。まだ20才の新入社員でありながら、何故か事業部の催事関係の重要なポスターのデザインをまかされることになったが、社内には先輩や同僚の優秀なデザイナーが何人もいるというのに、この田舎言葉が抜け切れない高Tadanori Yokoo撮影 三部正博18

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