KOBECCO(月刊 神戸っ子) 2021年1月号
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長が言った一言、「東京で一旗上げようと思っているんやったら、入社はお断わり」といった言葉が時々脳裏に浮上したり沈んだりしたが、僕にはリアリティがなかった。日宣美会員のデザイナーの西尾直さんひとり、このプロジェクトには参加しないで大阪に残ったが、他のデザイナーは全員東京を目指した。それぞれがどのような心情で東京へ行こうとしているのだろうか。大阪にいるより、東京の方がもっと希望と夢があるとでも考えた結果の判断をして東京に向うのだろうか。最も才能のある日宣美会員の横溝敬三郎さんなら、東京で成功間違いないだろうと僕は思っていた。他の誰よりも僕は彼の作品を尊敬していたので、彼と東京に行くなら少しは心美術家横尾 忠則神戸で始まって 神戸で終る ⑫ものであった。そんなテレビのセットのような小さい部屋だったが、描きかけのデザイン画のほかに飾り棚には平凡社の世界名作全集が何冊かと机、そうした家財道具などは会社が手配してくれたトラックで東京に運ばれることになっていた。上京に際して妻と西脇へ帰って両親の顔を見て、町のテープ会社からバイトのわずかな集金をして、大阪の親戚で一泊。1960年1月元旦に、夜行列車の銀河で上京することになった。大阪駅には僕の実の親と兄弟が見送りに来てくれた。「あゝ、明日は東京か!」何とも落ちつかない気分は重いのか軽いのか自分でもさっぱりわからなかった。ナショナル宣伝研究所の入社時の面接で所どさくさまぎれの状態で神戸を去ることになった。青谷の高台にある一間のアパートが新婚住まいだったが、窓からは遠く、神戸港が眺められた。夕方になると風に乗ってドボルザークの『新世界より』の「家路」がスピーカーから流れてきた。こんなのどかな止まったような時間こそ、お金はなかった(本当になかった)けれど絵に描いたような幸せな空気が漂っていた。六畳一間で、廊下に面した木戸を開けると、そこは半畳の板間の台所だった。トイレは共同便所で風呂はなかった。西脇の田舎から出てきた僕は、新婚生活というには、やっと21才になったばかりで、その精神は子供の域を出ていなかったので、新婚生活はママゴトに毛が生えた程度の実にプロトタイプなTadanori Yokoo撮影 三部正博18

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