KOBECCO(月刊 神戸っ子) 2020年12月号
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で、ものがきれいに見えるんです。神戸を、特に北野あたりを散歩していると、真珠の会社がいっぱいある。それはここの光が真珠の選別に適しているからだと聞いて、なるほどと思いました。−光とはさすが、絵描きさんならではの視点です。いや、ただ気持ちいいなと思っただけです(笑)。最近のことでいうと、鳥を観察するための望遠鏡なんですが、それで天体を見た時、土星の輪がくっきり見えてびっくりしました。関東では、天体望遠鏡で見た時でさえ、ぼやぼやと揺らいで、そんな風にくっきりと見えなかった。空気がきれいなんだと思います。−イギリスで長く生活しておられたんですね。比べていかがですか。神戸もロンドンも、多国籍の人たちが定住している点で似ていて、ぼくにとっては楽だし、自然でいられる街です。西さい東とう三さん鬼きという近代俳句の俳人がいるんですけど、彼は戦争の時にトアロードにあったホテルに滞在していて、その時のことを書いた『神戸・続神戸』という本があるんです。ホテルに住みついている人たちの様々な人生の物語なんだけど、そこにもいろんな国の人がいる。神戸は、歴史的にも海外に開かれてきた港町だし、昔も今もそれが神戸の日常なんでしょうね。−文学青年だったんですね。いえ、決して文学青年というようなものではないです。でも、十代の頃に好きだった稲いな垣がき足たる穂ほの短編小説も、神戸を舞台にしたものが多かった。そういう意味で神戸に親しみを感じていました。人との出会いと絵本作家としての始まり−イギリスには、どうして行かれたのですか。十代の終わりの頃は、東京で広告や雑誌のイラストの仕事をしていました。で、少しお金もたまったし、23歳のときに、好きだった英語をちゃんと習得したいなという気持ちもあって、ロンドンへ行ったんです。滞在中に、ふと浮かんだ絵本のアイデアをいくつかの出版社に送ったことで知り合った人の中の一人が、ぼくに、ある原稿を渡してくれたんです。ハーウィン・オラムさんという人が書いた絵本のテキストでした。それが『Angry Arthur』(邦題は『ぼくはおこった』)。ぼくのデビュー作です。1982年のことでした。−それからずっとイギリスに?いえ、日本に戻ってまた広告の仕事をしていました。そこへイギリスから別の仕事のオファーがきたりしたので、これは、もしかしたらあっちでやっていけるかもと迷い始めて、もう一度イギリスに行ってみることにしたんです。そこへ、最初に出した絵本がイギリスの新人絵本作家に与えられるマザーグース賞に選ばれたという知らせが入った。そのあと結局2009年まで、30年間イギリスで暮らしました。今ではそんなに簡単にいかないでしょうが、あの頃は、出版社の30

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