このような心が遊離した脱け殻の肉体が、幽霊のようにトボトボ歩いていたように思う。郷里の西脇からも両親からも切り離されている不思議な非存在的感覚といえばいいのだろうか。自分がどこに属しているのかさえ判然としない仮物の人間のように思えた。だけど一歩、勤務先の神戸新聞会館の建物の喧騒と中に吸い込まれると、さっきまでの街の孤独感は一瞬に消えてしまうのだった。僕の仕事場のマーケティングセンターはいつも若さと活気に溢れていた。隣で机を並べている木村君と僕は仕事の種類が違っていた。僕の仕事の大半は事業部から廻ってくる催事関係のポスターが中心だった。県下の少年野球大会、水着の女王コンテスト、時には松竹新喜劇の演劇ポスターなどが、次々と僕の仕事美術家横尾 忠則神戸で始まって 神戸で終る ⑦望の触手など全く目に入らなかった。現在は当時と様子ががらりと変わっていると思うが、国鉄(と呼んでいた)三宮駅と隣接するように阪急電車の三宮駅があった。この辺りの混雑した光景は田舎から出てきた少年には都会のルツボのようで、何かが常に沸湯しているように思えた。駅の構内の売店の新聞スタンド、そして靴みがきなどの姿が、エキゾチックな風景に映った。そんな人混みを歩いている自分は、最早田舎の少年ではなく、都会っ子のような、中味のない妙なプライドだけが先行した、地が足から離れて、フワフワした半ば魂の抜けた人間のように思えたが、このような感覚は初めて経験するものだった。群衆の中のひとりという孤立した感覚そのものが一種の異界体験であったのかも知れない。兵庫県庁の先きの中山手六丁目の下宿から徒歩で三宮駅までかなりあったが、まだ二十歳の肉体にとってはどうってことなかった。かなりの距離だとは思うけれど、田舎育ちの僕にとって神戸は大都会。見るもの触れるもの全てに好奇心が向いた。だけど今、当時を回想してみるけれど、この長い距離の風景の中で何ひとつ記憶に残るものはない。きっと外界を見る目よりも、内界、つまり心の中を眺める目の方に気を取られていて、肉眼に映るものは全て希薄だったのかもしれない。一体何を想い、何を考えながら歩いていたのだろう。三宮駅に近づくと人も車も多くなり、軒を並べた飲食街の中を無感情に通り過ごすだけだったのだろう。駆け出しのデザイナーには用のない繁華街をせかせかと通り過ぎるだけで、欲Tadanori Yokoo撮影 三部正博18
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