KOBECCO(月刊 神戸っ子) 2020年5月号
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しようがないって、その長峰快剣さんのところに習字を習いに通ってたんです。大正のね、恥ずかしいけど大正の六年頃です。日曜日か土曜日かになると習いに行かされて、でもつらくてつらくて。 その人がね、筆を運ぶときに、ウンウンウーンっていってね、それをまた「笑うな」ってね。(笑)東山 そうそう、そうそう。じゃやっぱり私も習ったんですね。今お話聞いてますと思い出します。淀川 ヒゲを生やした純日本式の先生でしてね。で、私が八つか九つのその頃、先生に何を上げたかというと、映画のブロマイド上げたんですよ。(笑)活動写真のブロマイド。メリ・マクラレン。「先生きれいでしょう」いうたら「ええ美人です」なんて。(笑)東山 淀川さんは神戸のどちらにいらしたんですか?。淀川 私は、生まれたのは西柳原で、それから布引へ変わって。東山 私はね、生まれたのは横浜なんです。三つの時に神戸に来たのかしらね。それから美術学校に入るまでおりました。だから戦争の始まった頃まで。新開地のすぐそばの、西出町とそれから湊町、下町です。淀川 あぁいいところですよ、そこにいらっしゃった。東山 だけど西出町の家は細い路地のねぇ……。淀川 みんなそうですよ、あの時分は。東山 父が小さな船具屋をしていました。淀川 そういうご商売のおうちの友だち、いましたよ、私の学校にも。船のご商売の方はみんな坊っちゃんよ。東山 いやいや、うちはまた例外なんですがね。もとはそれでもよかったらしいですが。だんだんダメになって。淀川 私のとこでもそう。大正時分は全部そうですよ。もとよかった、だいたいそういうケースですよ。じゃあ三才からあの辺りにいらっしゃったら、ひょっとすると兵庫の大仏さん、お行きになったことあるかしら。東山 もちろん。大仏さんはしじゅうですよ。淀川 おんなじだ、大仏さんにお行きになったことあるのですね!ひょっとするとすれ違ってたかもわからへん。東山 あの前にお・・・・・・・びんずるさんがありましてね。あれをしじゅう撫でさされて。淀川 ええ、ええ。じゃあそういう点では本当にお近くでございますねぇ。東山 ですから神戸というより兵庫ですね。淀川 私もずっと兵庫そだち。布引の方に移ったのはもっと後ですから。兵庫っ子ですよ。帝展入選に隣りのおかみさんが泣きだして東山 そういうところで育ちましたので、私はいちばん尊いと思いますのはね、いい方がどうも悪いかもしれないけ25

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