KOBECCO(月刊 神戸っ子) 2020年4月号
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よ。インドと国境を接しているのにインド料理のようにスパイシーではなく優しい味で、好みで唐辛子を加えたりしますが、基本的には日本人の口にもあう優しい味わいです。…今あるブータンで栽培されている米や野菜は、葉子さんのお父様、故・西岡京治氏の存在なくしては育たなかったと言われています。栽培技術や新しい品種を持ち込み、農業生産の向上に貢献されたんですよね。素晴らしい功績をたたえて、国王から「最高に優れた人」を意味する「ダショー」の称号を授けられ、現地にはお父様の仏塔もあると伺います。両親がブータンで定住を始めたのは1964年です。1962年に父は大阪府立大学東北ネパール学術調査隊の副隊長としてネパールに赴き、母は神戸女学院大学卒業後、父と結婚したのですが、やはり東北ネパール学術調査隊に参加してネパールにいました。隊長であった中尾佐助先生を通して、当時のブータン首相ジグミ・ドルジ氏と出会ったことがきっかけとなり、近代化を目指すにあたって農業専門家として夫婦で迎えられました。海外技術協力団(現JICA)として派遣が正式に決定したのは打診されてから2年後でしたが、チベット語ができるということ、夫婦なら長く滞在できるかも…ということで選ばれたのかもしれませんね。父と母2人でブータンに渡り、過酷な状況のなかで頑張る父を、母は根っからの探求心でブータンになじもうと努力し、縁の下で支えていたと思います。…お父様が農業に専念できたのはお母様のサポートがあったからこそなんですね。母は私を産むために単身で帰国し、生後6ヶ月の私を連れてすぐブータンに戻りました。私は7歳まで父と母と共に暮らしていたのですが、当時はレストランもなかった時代でアウン・サン・スー・チー氏、マイケル・アリス氏やシャーリー・マクレーン氏など各国の要人がブータンに来られた時には母が家でおもてなしをして、私も料理を運ぶのを手伝いました。今、様々な国からいらした方々に接するサービス業の仕事に就いているのも、当時の楽しかった思い出が私の根底にあるからでしょう。父は計28年間、農法のみならず、産業や生活の基盤改善に大きく寄与しました。大きなプロジェクトのため、父が奥地に数年赴くこととなり、子供たちの教育も考えて…と母と弟と私は帰国しました。…1992年にお父様が病気で亡くなられたときは外国人として初めての国葬が執り行三好先生は今年ブータン旅行を企画中。標高約3000mの断崖絶壁に張り付くように建つ、“虎の棲家”こと「タクツァン僧院」や香りのいい「ブータンの松茸」など、魅力満載の旅になりそう。ブータンへは関西を夜、出発してバンコク経由で翌朝には到着と意外なことに距離的にはそれほど遠くはない! 42

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