KOBECCO(月刊 神戸っ子) 2020年4月号
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た。何だか怪しげなバイトで、キャバレーなどで金粉ショーのようなことをやったり、シャンソンまがいの歌を歌っていたようだ。僕には、こういう不良性はなかったので、ヤバイ奴らだと思っていた。新社屋に移って間もなく、僕は事業部が発注する催事のポスターを一手に引き受けることになった。僕は東京の芸大を断念したあと半年ばかり加古川の印刷所に勤めたことがあったが、デザイナーとしてはアマチュアに毛が生えた程度の全くの素人デザイナーである。神戸新聞社に入社して一年も経っていなかったが、事業部のポスターを引き受けるようになったのは、ほんのちょっとした切っ掛けが僕に大きいチャンスが巡ることになった。事業部のポスターは僕が下宿している先輩の村松さんと、その上司の西山課長が担当して美術家横尾 忠則神戸で始まって 神戸で終る ③画館があって、時々、誰かにもらったチケットで観賞することがあったが、イブ・モンタンの「恐怖の報酬」とソビエットのカラー映画「石の花」の二本しか観た記憶がない。もっと観ているはずだが想い出せないだけである。新社屋に移ってからも灘本さんはよく新聞会館に遊びに来ていた。マーケティングセンターが発注する仕事を灘本さんが受けていたようだ。元町時代の仕事場にくらべると何倍もの広い空間で仕事ができたし、新聞会館の中をウロウロするだけで十分時間がつぶせた。七階には新聞会館の大劇場で演じられる催事のポスターをデザインしている一、二才年長の京都芸大を出てバリバリのデザイナーの播磨君と、もうひとり、同い年ぐらいの歌の上手いデザイナーの繁地君がいて、2人はよく地方巡業をしてい生まれて初めての一人住まいは、嬉しいような、でも寂しい殺風景な生活で、牢獄に入っているような孤独な気分だった。郷里から送ってもらった布団があるだけで、机もなく、本も一冊もなかった。階下に村松さんがいる時は「紅茶を飲みに降りておいで」と言ってくれた。村松さんは灘本さんより少し若い、神戸では中堅のデザイナーだった。僕の高校時代のクラスメートでお寺のお嬢さんがいたが、その子と村松さんは親戚だということがわかって、急に親近感が湧いてきた。新社屋の神戸新聞会館には毎日バスを仕立ててくる県下の観光客で溢れていた。新聞会館の一階はショッピングセンターで、三階は大劇場、歌舞伎や新劇、音楽リサイタル、映画などが上演、上映されていた。七階にはスカイシネマという名画専門の映Tadanori Yokoo撮影 三部正博20

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