KOBECCO(月刊 神戸っ子) 2020年3月号
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り、豊臣政権の財政を大きく支えた。「台所間歩」「瓢箪間歩」は、秀吉ゆかりの名が付されている。この時代の坑道はいまも残り、中には入ることはできないが、風がひんやり吹き出して、覗き見れば鏨たがねの音が聞こえてきそうだ。本格的に発展したのは天領となった江戸時代の寛文年間で、代官所が置かれその跡はいまも残っている。最盛期は年間で銀約5・6トン、銅約420トンがこの山から産出されたのだから、幕府の鼻息はさぞ荒かっただろう、多田神社の荘厳な本殿・拝殿が建立されたのもこの時期だ。当時は南蛮吹きという手法で製錬もおこなわれ、その様子は、交流施設、多田銀銅山悠久の館の展示で体感できる。近代にも採掘が続き、製錬もここでおこなわれていた。悠久広場には明治時代の製錬所の煉瓦の遺構が聳え、古代遺跡のような風格を感じさせる。戦後も多田銀銅山では日本鉱業株式会社(現エネオス)によってしばらく鉱業は続けられたが、昭和48年にその役割を終え、いま今も坑道跡が残る(多田銀銅山)金山彦神社(多田銀銅山)49

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