KOBECCO(月刊 神戸っ子) 2020年3月号
38/51

フランス映画が、やはり巧い。フランソワーズ・サガンの小説は、いつもぜいたくな涙の宝石でこの愛のかたちを飾る。それをフランス映画が頂くと、いかにも巧い。「別離」は三十女のルシル(カトリーヌ・ドヌーブ)が、まるで少女みたいに、五十男の大金持ちの実業家シャルル(ミシェル・ピコリ)に豊かに愛されている。このルシルが遊びの集会で若い美青年これも三十男のくせに少年みたいなアントワン(ロジェ・バン・オル)を見た目つき、またアントワンがルシルを見た目つき。二秒くらい。その瞬間は、すぐ去ったのに、五十男のシャルルは、二台の車を用意して自分たち仲間五人で一台、あとの一台になにげない様子で、さらっとした様子で、ルシルとアントワンを乗せる。そして次のクラブで、五十男はその二人の反応を、これまたなにげない表情でニコニコと、内心はこわごわで、見守るのである。そのくせ二人を何となく近づけて、やっぱり本当にルシルがアントワンを愛し始め、ついに五十男を捨てる。捨てるのだが、働いて食っているアントワン、その小さなアパートそのうえルシルまで勤めに出て、けっきょく妊娠して、その子供をおろす金に困り、これをおめおめとシャルルに借りに来て、あれやこれやで、とうとう女はアントワンに置手紙を残して、もとの五十男の豊かな生活のもとに戻る。ずいぶん勝手な女の話なのに、見ていて、なんとなくルシルが可哀想みたいになる。これがサガンの小説の魔法なのであろう。けれどもこの愛のかたち、春から始まり冬に終わるそれには人生の季節の哀感までしみこんで、見とれてしまう。よく五十男がこんなことを言う。僕は妻を僕という池の中の金魚だと思っているんだよ。どこへ泳いでいったって、けっきょくは僕という池の中にいるんだからねえ。憎い言葉だし嫌な言葉だが、男のたのもしさと哀れさの二つが同居していて、妻君を愛しきっているその弱さに逆の強さが生まれていて面白い。イギリスの女の小説家の書いた「ミス・ブロディの青春」という映画の愛のかたちは奇妙である。奇妙だけれども女の意地悪さと弱さと強さが出ていて勉強になる。KOBECCOアーカイブ映画評論家 淀川 長治CINEMA試写室 『愛のかたち』4040

元のページ  ../index.html#38

このブックを見る