KOBECCO(月刊 神戸っ子) 2020年3月号
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えられた。両親は僕が神戸で下宿することになったために大変淋しがって、しょっちゅう手紙をくれた。下宿の羽松さんの家は布引の滝の近くにあったので、三宮までは徒歩通勤に変わった。郷里の西脇から通勤していた時は、早朝に母が作ってくれた弁当を持ってきていたが、下宿になってからは会社の地下の社内食堂でうどんとか卵ご飯を食べていた。時たま外食することもあった。ここで食堂で大失敗したエピソードを紹介しよう。ある日会社が引けて下宿に帰る途中、新装開店したばかりの食堂に入ってみた。客は誰もいないでガランとしていた。食事代は極力始末していたので、シャケとご飯を注文した。西脇では鮭のことをシャケという。神戸ではきっと鮭というのだろうと思って、「サケとご飯」と注文した。持ってきたのは銚子と酒づきとご飯だ。「エッ!」と思ったが、「酒ではなくシャケなんです」と言えばいいのに、恥ずかしくて訂正ができない。店員の女性2人が興味深々と僕を見つめている。「ご飯と酒をどないして食べはるんてくれているのは」それ以来、長谷さんは僕の在籍中、何かにつけて面倒をみてくれるようになった。この頃、三宮駅前に七階建ての県下一番の高層ビルだという神戸新聞会館が建造中だった。今では考えられないが当時(1956年)、七階建ての建物は高層ビルだったのである。この建物は県下一の新名所となった。この輝かしい神戸新聞会館に勤めているというだけで、僕を見る郷里の人達の目が変わった。両親も鼻高々で、郷里で衣料品の行商をしていた父などは、息子が神戸新聞会館に勤めているというだけで、商売にもいい結果が出たと言って喜んでいた。元町にあった宣伝技術研究室も新聞会館落成と同時に全員、新築されたビルの六階に移り、名称もマーケティング部宣伝技術課と変更された。新聞会館に移ると同時に神戸で一人暮らしをしたいと考えた。新聞社の広告部のデザイナーの羽松隆さんが、自分の家の一間を貸すと言ってくれた。小さな一軒家の二階の一間が僕の部屋に与『NARUTO』と書いて出品しい」そう言われた以上逆らうわけにいかん。しゃーない『NARUTO』と書いて出品した。数日後、灘本さんが来て「日宣美展、どうやった?」「落選しました」「そーか、やっぱり落選したんか、そりゃ落ちるわな、アッハッハッハ」僕も一緒になって笑った。宣伝技術研究室は元町の大丸百貨店の筋向いの角のビルが近畿広告社で、その4階にあったように思う。西脇から電車で通うためには、始発の5時代に乗らなきゃいけない。ところが会社には8時に着く。当然誰もいない。最初の頃は会社の周辺を散歩していたが、それも飽きる。社員が出社するまで、時間があるので皆んなの机を雑巾で拭いたり、散らかっているのを少し整理しながら時間をつぶしていた。ある時、室長の長谷さんがいつもより早く出社してきた。その時、室長の部屋を掃除している最中で、叱られると思って小さくなっていた。すると長谷さんは「君か、いつも机をきれいにし28

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