KOBECCO(月刊 神戸っ子) 2020年3月号
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でもすれば、一躍スター的存在になり、若いデザイナーからは憧れの的になる。僕が宣伝技術研究室に入った年の夏だったと思うが、ある日灘本さんが来て、「横尾君も日宣美展に出品したら?」と言ってくれた。サイズはB全。こんな大きいポスターなど描いたことがないが、神戸の若いデザイナーを応募するという。デザイナーになる野心がそれほどなかったが、灘本さんと交友が結べると思うと、灘本さんの意思に従って出品してみようと、会社が終わってから、ポスターを描くことにした。やはり観光ポスターがいいと思って、京都の竜安寺をテーマにして画面の中央に石を描いてその周囲に渦巻状の模様を線で描いた。それ以上何をしていいかわからなかった。そこに灘本さんがやってきて、「もう描いたんか、何やこれ?わからんわ」ちょっと天地逆にしてみて、「あっ、わかった、蚊取り線香のポスターか?」「違う、竜安寺の石庭や」「石庭には見えへん。鳴門の渦にしか見えへん。ローマ字で彼は色々教えてくれた。彼はどちらかというと抽象デザインが得意だった。僕は具象的な絵が好きだった。そんな僕のスタイルはイラストレーションと呼ぶカテゴリに属するということも、この仕事場で知った。僕を推薦してくれた灘本唯人という人は、神戸のデザイナーの中でも一目置かれた信頼されたデザイナーであったらしい。そんな人のお目にかなった僕は喜ばなければならなかったが、どう喜んでいいのか、この神戸のデザイン界がどのようなものなのであるのかさえ、十分熟知していなかった。灘本さんはよくこの宣伝技術研究室に来ていた。室長は日本宣伝美術会という全国的組織の会員で長谷正行という有名なデザイナーであった。日本宣伝美術会員に推挙されると全国的にも評価されるデザイナーとして信用されるのであった。毎年、夏になると日宣美展というのが東京で開催され、関西にも巡回される。だから若いデザイナー達は、この公募展に出品して入選を競う。まして入賞時の2人の生理状態が僕の人生に強く関与したわけである。「入れ」と言われて入った会社が僕にグラフィックデザイナーという職業を方向づけたわけで、この職業が僕に適しているかどうかは未知であった。デザイナーとしてやっていけるかどうかは全く自信がなかった。第一、デザイナーという職業がどんなものであるかも知らない。僕を採用した神戸新聞の上司のデザイナーに従えばいいわけで、僕がデザイナーとして適正であるかどうかは僕の問題ではなく採用した会社の問題だから、僕は気が楽であった。こういう先天的な受け身の資質が自分の個性であるから、自分で変な野心とか野望をもつ必要がなかった。ただ絵を描くのが好きだったから、与えられた仕事のテーマをあれこれ考えて作品化する楽しみというか喜びだけで仕事ができた。仕事場には僕と同年の若いデザイナーがいたが、彼はデザインの専門学校を出ていただけに、いかにも格好いいデザイナーに映った。デザイナーとしては素人の僕に27

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