KOBECCO(月刊 神戸っ子) 2020年3月号
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へ行き」と言ってほとんど強引に僕の去就が決められてしまった。ところが、受験のために上京して、いよいよ明日が受験日だという前夜、高校を退職していて東京に住んでいた美術の先生が、「明日の受験は中止して郷里に帰りなさい」と言った。理由はわからなかったが、先生なりの考えがあり、悩んだ結果の指摘だったように思えた。人生の岐路が決まる大事な瞬間なのに、僕は先生の意見に簡単に従うほど主体性のない少年だった。美術学校に進学するのも受験を断念するのも全て第三者の意志に従ったわけで、神戸新聞に「来い」と言われれば。それに従うべきだと考えていた、そんな優柔不断なところが先天的に僕の性格を形成していた。それにしても、人生は不思議というか、神秘だと思う。あの美術家横尾 忠則神戸で始まって 神戸で終る ②「寺尾さん、この子面白そうやから、宣伝技術研究室に入れたらどう?」という灘本さんの意向で、僕は元町にあった神戸新聞宣伝技術研究室に入ることになった。もしこの2人が歩いている時に喉が乾かなかったら、僕はスカウトされなかったのである。グループ展にはポスターを出品したが、デザイナーを志望していたわけではない。趣味で絵を描いていたわけで、将来絵で身を立てようなんてこれっぽっちも考えていなかった。僕の性格はひとりっ子で育ったせいか、自主性に乏しく、人のいいなりになることに全く抵抗がなかった。高校時代は郵便マニアだったので、できれば郵便局に勤めたいと思っていたが、高三になった時、校長先生と担任の先生が、「郵便屋になるより美術大学 元町の喫茶店の2階で「きりん会」のグループ展を開催中に、郷里の西脇の自宅に一通の葉書が舞い込んだ。葉書の内容は神戸新聞宣伝技術研究室からで、一度会いたい、というような内容であった。神戸新聞社の寺尾竹雄さんと山陽電車宣伝部に勤務していたデザイナーの灘本唯人さんが元町通りを歩いていた時、2人が急に喉が乾いた。「どっか喫茶店があれへんやろか」と会話を交している時にたまたま目に入ったのが、「きりん会」のグループ展を行っている喫茶店であった。「ほな、ここに入ろうか」「何や展覧会をやってるやんか」そんな会話を交わしながら、灘本さんが関心を持った作品が僕の絵だった。Tadanori Yokoo撮影 三部正博26

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