KOBECCO(月刊 神戸っ子) 2020年2月号
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2人でほとんどドライブに出かけていました。六甲山? 六甲山は、ぼくが自分でバイクの免許を取ってからは庭みたいなものでしたよ(笑)。何にせよ、車好きの母親の影響は大きかったと思います。―マツダの社員ドライバーとしてレースに挑戦するようになったのはなぜですか。弟子入りした古我先生はホンダの関係の仕事をしていましたから、最初は、ホンダ関連のクラブに手伝いで入れてもらい、レースのことを学びました。18歳の時から4年間は、母親からの資金で、プライベートでレースをやっていたんです。22歳になったときに、マツダが国内レースをやり始めるにあたってドライバーを募集していたので、マツダオート東京に就職しました。当時、マツダではスポーツキットを売り出していて、その拡販のためにモータースポーツ相談室を開設した、ぼくはそこに配属されたわけです。当時、プライベートでレースをやるお客様を増やしていこうという方針があって、マツダのキットをこんなに活躍したのは知りません。前半しか知りませんけれど、ずっと見ていましたよ、負けて帰ってくると怒られたしね(笑)。そもそも母親自身が、車の運転がものすごく好きだったんです。ぼくがレーサーになりたかったもうひとつのきっかけというのが、母親が、第2回日本グランプリ自動車レース大会を見に、鈴鹿サーキットに連れていってくれたことでした。家にはドイツのオープンカーがあって、母親はそれを乗り回していましたしね。父親を亡くしてからは、週末は母と行預金がなかった。スポンサーなんて見つかるわけないし、だからぼくにとってのスポンサーは、母親しかいないわけです。それがわかってから、母親とは、何度も何度も話をしました。だって、母親すら説得できなくて、世の中で何が語れるか、と思ったんです。いちばん身近にいる母親を説得して、納得させられなければ、男一人世の中に出たって何もできない、他人を説得することなんかできやしないでしょう。だから母親を説得して、味方にしないといけないと思ったわけ。だから母親には「4年間ぼくを大学に行かせるお金を全部ちょうだい」と言ったんです。「全部ぼくに賭けてくれ」と。母親も最後は、この子の好きなようにやらせようと思ったんじゃないのかな。それは大きな愛情だったと思います。母親にはものすごく感謝しています。―お母様は、寺田さんの活躍はご覧になった?ぼくがちょうどル・マンに行っているときに脳梗塞で倒れてしまったので、後半、ぼくが今の様に37

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