KOBECCO(月刊 神戸っ子) 2020年2月号
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車の運転をしました(笑)。レーサーになりたいと思ったのは、単純に好きだったからです。動くものが好きだった。ぼくが中学から高校の当時、ホンダがF1をやりはじめて、真っ白なボディに日の丸が描かれていて、かっこいいなあと思ったんだけど、でもホンダなのになぜドライバーが外人なんだろう、と思いました。なぜ日本人が乗らないのかと。じゃあよし、自分がなってやる、と思ったんです。結局、知人の紹介で、東京にいる古我信生(こがのぶお)というレーサーの草分け的な人に弟子入りをすることになりました。―ではご実家の会社は。誰も継ぎませんでしたから、廃業です。だから、そこには母との戦いがあったわけです。母は、ぼくに青年実業家として跡取りになってほしいと言い、ぼくはレーサーになるから東京に行くと言った。母とは一年ぐらい口をききませんでしたね。熟読した「ザ・テクニック・オブ・モーターレーシング」ピエロ・タルフィー著に、レーサーになるには5つの条件が必要である、といわれてました。その条件とは①健全な肉体と健全な精神、②天性のコーナリングのセンス、③モータースポーツへの情熱、④家族の反対がないこと、そして最後に、⑤多額の銀行預金、この5つが最低条件だというんです。そりゃそうですね、自動車を買わなくてはいけませんし、レースに出るにはチューニングに多額のお金がいります。ぼくには①~④はありました。コーナリングのセンスもあると思っていましたよ、そう自惚れていなかったらレーサーになろうとは思いません。ただ⑤の銀―チームをまとめていく上で重要なのは?プロを雇うことです。何のために戦うか、何のためにやるのか、ということですね。いいかげんなのを雇ってもしかたないですよ。母親を説得できないで世の中で何を語れるか―マツダオート東京に入社したきっかけは。ぼくは神戸の垂水で生まれました。実家は子ども向けのケミカルシューズを作るメーカーで、家には若い住み込みの職人さんがいつも30~40人いましたよ。輸出もしていましたし、そこそこの商売をしていたのですが、ぼくが中学3年のとき父が亡くなりました。母は、ぼくを大学に行かせて家業を継いでほしかったそうですが、ぼくは「自動車のレーサーになりたい」と思っていました。というのもぼくは小さな頃から動くものが大好きで、タクシーに乗ったら助手席に座り、市電に乗ったら運転席のななめ後ろにいて全部を見ていて、小学校3年のときに家の庭で初めて自動36

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