た後で、親会社のマツダと、マツダスピードの技術陣が目的をひとつにして、ものすごく強力なタッグが組めたんです。マツダスピードというのは実動部隊、一方の親会社マツダは自動車メーカーだから、実動ではないけれど構造設計をしたり耐久試験をしたりというのは得意ですから、そういったことはすべて広島の本社でやってもらった。結果、チームが一体になっていて、南仏のサーキットで入念な走行テストをし、すべてのパーツが24時間以上、5000キロ以上耐久するという確証を持っていました。1991年は最初から勝つつもりでしたね。勝つべくして勝ったということです。ただ、2台出した新型787Bのうち1台は予期せぬトラブルが起きて6位でした。本当は、ワンツーを目指していたのですけれど。1991年はそういうことで、マツダとマツダスピードの力を100%出し切れたときではないかと思います。ル・マンでの総合優勝は、日本の自動車メーカーでは初めてでしたし、嬉しかったですね。―マツダ社の評価が世界的に高まった時だと思いますが、プレッシャーも大きかったのでは。プロの選手としてやっている限りは、そういったプレッシャーは当たり前です。一年に一回、24時間の一回だけの勝負ですからね。それに打ち勝っていくのがプロの仕事でしょう。―悔しい思いをされたレースの思い出はありますか。そういう思い出の方が多いですよ。悔しい思いというか、「反省」ですね。自分自身への反省や、チーム運営への反省。悔しい思いっていうのはあまりなかったかな、むしろなぜ負けたのかとか、この次はこうしたら勝てるのではないかという反省の気持ちの方が大きかったですね。だって勝つべくして勝っているから、負けるべくして負けているんです。負けるのは、自分たちの何かが悪かったからです。それを悔しがってもしょうがない。―勝つことにおいて何が大切なのでしょうか。それはチームワークが一番大している(1回は予選落ち)んですけれども、その挑戦の理由っていうのは、勝つことが難しいから、ですね。例えば夜のレースはサーキットにはメインスタンド以外に照明が何もなく、真っ暗な中を、自分のヘッドライトだけで300km/h以上の速度で走ります。雨や霧など、自然との戦いもある、それでも走り続けなくてはなりません。朝はものすごく冷えます。寒暖の差がいちばん激しいときは、昼間30度で、明け方8度というときがありました。それにまずタイヤを合わせていかなくてはいけないし、ドライバーの身体も合わせることが必要ですしね。それに、夕日と朝日がものすごくまぶしい。コーナーで、明け方でとても身体が疲れているときに、真正面から朝日が昇るんです。「ダンロップブリッジから朝日が昇る」んです。―1991年に総合優勝をされたときの思いは。あの当時は、1983年にモータースポーツ専門の子会社「マツダスピード」を作ってもらっ3434
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