KOBECCO(月刊 神戸っ子) 2020年2月号
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“あたたかいものを描く”ことを大切にしている―画業45周年を振り返って、いかがですか。みなさん、同じだと思いますけれど、時間がたつのはあっという間でしたね。45周年という実感はなかなかわかなかったのですが、今回画集を出すにあたって、今までの作品が持ち込まれたときに、その数が約一万六千点、そのうち千点と少しが画集に入ったのですけれど、その量を物理的に見た瞬間、45年の重みを感じました。自分の絵も変遷していますしね、というのは、極端に言えば絵が上手くなったのと、色彩もたくさん使うようになりましたし…、でも、当初描いていたころからの、「あたたかいものを描くんだ」という気持ちは今も続いています。これはぼくが大切にしていることです。―作品に登場する男女は、幸せなシーンばかりですね。ぼくの場合は、一枚のイラストレーションもあるし、4~8枚のカラーコミックもあるけれど、その中には別れの修羅場やベッながらなくなり、やきもきしていました。近くにあったカトリック六甲教会に避難しているとわかって、やっと安心したんです。―神戸阪急の展覧会には、三宮の街を描いた作品もありました。実際ぼくが小学生のときに体験した、それは過去のことではありますが、神戸のことを思い出して描きました。父親に三宮につれていってもらって映画を見て、あの映画は『透明人間』だったかな、その後食事をしたなということなんかを思い出して、描いています。―武庫之荘にギャラリーをオープンされました。もともと、ぼくが育った北九州の門司港ギャラリーと、東京の成城にギャラリーがありました。このたび、東京のギャラリーが白金台に移転し、生まれた町のそばにもギャラリーがあった方がいいのではと思っていましたら、ご縁があって武庫之荘にギャラリーをオープンすることができました。神戸の思い出は、家族の思い出―わたせさんは神戸のお生まれでいらっしゃるそうですね。両親が神戸に住んでいて、ここで出会って結婚し、ぼくもここで生まれました。わたしの父は画家を目指していて、結局は関西学院大学に進み一般の会社に勤めたのですが、神戸ゆかりの画家、小磯良平さんを尊敬していました。―神戸の思い出はありますか?その後、父の転勤で福岡県北九州市に移り住んだのですが、小学校4~5年のとき神戸にいました。そのときは、六甲山に行ったり、小さな滝で遊んだり、蚕を飼ったりしたのを覚えていますね。週末になるとチョコレート色の阪急電車に乗って、三宮に買い物にいくわけです。北九州で育った人間ですので、あの、電車がビルの中に入るというのはすごい衝撃でした。阪神・淡路大震災のときは、第一報が神戸の叔母から母にあって、そのときは電話が通じたのですが、それ以降はまったくつ27

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