KOBECCO(月刊 神戸っ子) 2020年2月号
20/55

この頃、神戸新聞が「読者のページ」のタイトル・カットを募集しており、高三の頃から僕はこの欄にカットを投稿していた。投稿すれば、かなりの確率で採用され、その内 、常連のひとりになった。そんな常連が4、5人いて、その中のひとり、神戸在住の納健という少年からある日葉書が届いた。常連5人でグループを作らないかという提案だった。郷里には絵の友達はひとりもいなかったので、この呼び掛けには何の躊躇もなく、賛同した。そして三木の町で初めて顔を合わせた。5人ともほぼ同年代であった。この時の写真を見ると、僕はいっぱしの芸術家を気取ってベレー帽などを被っている。他の者も同じような格好をして、若き芸術家集団という感じで、今想うと、ほほえましく見える。神戸出身が二人、あとは加古川と三木、西脇美術家横尾 忠則神戸で始まって 神戸で終る ①絵さながらの称相を呈しているんやろなぁ〉と小学3年生になったばかりの僕はこんな風に感じていたのかもしれない。その時から70年後、僕は画家になって大きいキャンバスに赤い夜空の風景の連作を描いていたが、この幼年期の神戸の空襲の光影の記憶が無意識にキャンバスの中に表現されていたのかもしれない。そんな神戸の空襲の記憶が、僕の中で初めて、神戸を認識させた一瞬であったような気がする。神戸といったって、まだ一度も見たことのない都市で、そこがどのような街であるかも知らない。絵本などで見る都会の風景は子供の僕には幻想の街でしかなかった。僕が初めて神戸の地を踏むのは18才になった頃であった。その時の話から始めよう。 ズズズズ ズズドーン。「爆弾の音や」神戸から53キロも離れている西脇のわが家のガラスを空気を裂いて震動させる。「危ないわ、防空壕に入ろう」せっかちで怖がりの父は母を促し、眠っている僕を起こして、表の畑の中に立っているコンクリートの三基の低い柱塔を利用して父が作ったお素末な防空壕と呼んでいる三人が身をかがめて、やっと入れそうな空間に駆け込んだ。「神戸が空襲でやられてるわ」やがて南東の空が赤く染まってその面積が次第に広がって行くのを畑の中の手製の防空壕の中から眺めていた。暗い夜空が見る見る朱色に塗られて星まで赤いコンペイ糖のように見えるのだった。〈あの空の下は、きっと地獄図Tadanori Yokoo20

元のページ  ../index.html#20

このブックを見る