KOBECCO(月刊 神戸っ子) 2020年1月号
39/53

放課後、皆帰ってしまった教室で一人残された私は、さすがに悲しくなって「なんで僕はせいでもええことばかりして叱られるんやろか」と考え込んでしまった。此頃の心理は、今考えてみてもわからない。要するに泥だらけになってほっつき歩いているワンちゃんと何らかわりがなかったのである。二つ違いの兄に今でもよく云われる話だが、雨降りの日に傘をさして如露で庭の草花に水をかけていた子供なのである。兄貴は秀才で、中学四年から一高、東大、高文というその頃の秀才コースを進んでいった男なのだから、私の馬鹿さ加減は余計めだったのだった。だが兄は私のことを心配してよくかばってくれた。そして母は唯一の保護者だった。バイオリニストを志ざしていた母は、結婚し子供ができ、二人の男の子が取っ組み合いの喧嘩をしている傍でも毎日欠かさず何時間かはバイオリンを弾いていた。何と気の強い母親なのか私がびっくりしたことがある。例によって教師になぐられ、その時は相当ひどいわるさをやったのか、前歯をへし折られて家へ帰った。それを見て母は顔色を変えて学校へどなりこんで行った。「息子を教育してもらうために学校へやっているのであって傷をつけてもらうためではない」と。「謝れ」「謝る必要ない」教師も相当頑張ったらしいが、兎に角、謝る迄はここを動きませんと座りこんだおばはんに根負けしたのか、結局、母は自分の言い分を通して引きあげてきた。「お前は人より本を沢山読んでいるから偉い偉い」と劣等感のかたまりみたいな私をほめ、おだてて例えそれが漫画であろうと講談本であろうと本だけは欲しいだけ買い与えてくれた。その母も今はいない。私にとって母の想い出はやはりこの仁川の月見カ丘の頃。元気な頼もしい母親がなつかしい。1965年6月号41

元のページ  ../index.html#39

このブックを見る