KOBECCO(月刊 神戸っ子) 2020年1月号
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――つぎは孔子を書く。きみ、曲きょくふ阜へ行ったかね? そこで、きみはどう思った?と、たちまち収材される。井上さんが回顧談をされるのはあまりきいたことがない。『神戸っ子』創刊の年の十二月号に、私は十枚ほどの掌篇小説のようなものを書いたおぼえがある。そして、つづいて、「新春雑感」を書けと言われて、ずいぶん人使いの荒い雑誌だと思ったものである。当時、『神戸っ子』の小さなオフィスは、国際会館一階にあり、立ち寄りやすかった。文化ホールがまだなかったので、神戸に来る芝居はたいてい国際会館だったので、芝居好きの私はよく通った。あのころでは、民芸の「火山地帯」、俳優座の「十二夜」(河内桃子がよかった)、文化座の「荷車の歌」、文学座の「国性爺」などが記憶にのこっている。観劇の帰りにぶらりと『神戸っ子』に寄ると、おいしいお茶が出たものだ。その年の十一月ごろ、私はラジオ関西で「ミステリーこぼれ話」というシリーズになんどか出演した。迎えの車の運転手氏に、「北野町から須磨まで信号なしで行ける道がありまっせ」と言われその道を通ったことがある。いまでは信じられないだろうが、すこしまわり道だったけれども、三十年前にはそんなノンストップコースがあった。この一月の直木賞選考会で、直木賞史上最高齢の古川薫氏が受賞した。選考が終わり、しばらく雑談していると、別室の芥川賞選考会から、――二十八歳の小川洋子さんにきまりました。という報告があった。選考委員のジイさんバアさん(失礼)、思わずため息をついて、――私たちが書きはじめたころ、まだ生れていなかったんだね……。どうやら話がまた回顧的になりかけたが、『神戸っ子』も私もそんな年になったということである。どちらも、おなじ仕事を、ずっと休まずにつづけているところがすばらしいではないか。『神戸っ子』をほめるついでに、自画自讃させてもらおう。1991年3月号37

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