身体は脳と違って正直なもの―『自我自損展』ではご自身がキュレーションを担当されました。今回のぼくのキュレーションの背景に、ちゃんとした論理があるかといえば、論理はありません。思想もないし、気分で選びました。でも「気分」が一番大事なんですよ。人間はそのときの考えで行動していると思いがちだけど、意外とそうではないんですよね。その中に、損得や利害関係を頭に置いている、それは気分ではありません。気分とは、感覚的なもの、本能的なもの、生理的なものです。もっといえば、魂と接続しているのが気分なんです。現代は、知識とか情報とかそういうので結びついているので、そうすると時代的にはそれが正しく見えることもある。でももっと人間の本能とか魂に考えさせた方がいい。自我の背後に魂があるんですよね、その魂が、イエスと言っているのか、ノーと言っているのか、そういうところまではみんな考えない。もっと昨年12月に横尾忠則現代美術館で開催されていた『横尾忠則 自我自損展』は、展覧会のキュレーション(展示作品を選び、その展示方法などを決定すること)を横尾忠則自身が行い、話題を集めた。作品づくりの根底にあるものをインタビューした。週刊誌は仏教書―作品のイマジネーションの源泉はどこにあるのだろうと考えさせられます。源泉は、ぼくの子ども時代の経験でしょうか。つまり、1歳から19歳までの10代に経験したこと、あるいは記憶、思索、そういったものが総合的になって、その後の人生の体験と絡み合いながら生まれてくるんですが、言葉ではなかなか説明しにくいです。―最近はスマホが手放せない子どもが多いようですが。ぼく自体、スマホは操作できないから日常的に使っていないだけで、使えるのであれば使ってみたいと思います。あれはあれで、子どもたちの新しい情報源になっているんじゃないですか。ぼくの情報源は、新聞、テレビ、ラジオですが、創作における情報源というのはぼくの10代のときの体感が大半で、今の社会で体験している情報は、創作にはあまり関係ないですね。ぼくは難聴で、テレビを見てもよくわかりませんし、テレビは情報の窓口にはなりません。ただ、週刊誌はよく読みます。スキャンダル記事が好きなんです(笑)。ぼくは、スキャンダル記事は「仏教書」だと思っています。因果応報、自業自得…そういうものの結果で、問題が起きる。何かことが起きるには原因があって、縁があって、結果が出るわけです。大げさにいえば自然の法則というのが、現代の人にはわかっていないんじゃないかな。それが週刊誌の記事になっている。わかっていない人が、かたよった解説を書いている(笑)。それをぼくは「仏教書」と思って読んでいます。教典を読むより現実的で具体的でよくわかります。31
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