KOBECCO(月刊 神戸っ子) 2020年1月号
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んを知り、いつも金魚のフンみたいに灘本さんのあとをついて歩いていた。灘本さんの色彩感覚は抜群に美しいと思い、彼の影響を受けた作品を作っていた。灘本さんを筆頭に若いデザイナーが組織するNONというグループに参加しながら、神戸でデザイン運動を起す計画などを話すことが多かったが、これというグループ活動もできないまま、いつの間にか終しゅうえん焉を迎えてしまった。その張本人はどうもぼくの東京への進出がグループの自然消滅に結びついたような気がする。東京へ行く時は「灘本さん一緒に行こうなぁ」と言っていたぼくが、フイとひとりで上京したもんだから、神戸に残った灘本さんは、えらいボヤイタそうである。そして1960年元旦にぼくは上京するが、その後、神戸を訪れることはあったが、新聞社のメンバーも変わって、居場所もなく、なんとなく淋しい空気だけが漂うだけだった。あれから50数年、奇跡が起った。まさかのまさか、新婚生活時代住んでいた青谷の真南、徒歩30分の所に、ぼくの美術館ができるなんて、誰が想像しただろう。求めずしてなるようになったとしかいいようがない。そして、第二の神戸時代がたった今始まっている。シャケは生まれた川に戻って産卵するというが、正にぼくはシャケである。神戸との密度はこれから益々強くなると思う。神戸で始まって神戸で終る。宿命というか、これも運命であろうか。29

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