KOBECCO(月刊 神戸っ子) 2019年11月号
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かなりありましたね。いってしまえば、そのおかげでガンダムにたどり着いた、ということです。─ガンダムの最初の主人公、アムロ・レイのナイーブな性格というのは、なぜ生まれたのですか。虫プロをやめてフリーになって、いろいろなプロダクションの仕事をやっていたときに、高畑勲(※)と、そのそばに宮崎駿っていう人がいるのを見たんです。もちろん名前は知っていました。その、高畑監督の『アルプスの少女ハイジ』の仕事が取れたんです。シナリオを渡されて、じゃあそれをコンテにしてって言われたとき、質問したんです、「この話で良いんですか? アニメに似合わないと思うんですけど」、そう言ったら、高畑監督とそばにいた宮崎さんが、お前はバカかって顔をしていました(笑)。というのは、高畑さんのシナリオって400字詰め原稿用紙に書かれていたりするんですけど、ただペーターと羊が山を登っていくだけのシーンが1ページ書かれているんです。「それで良い虫プロで場数を踏んでガンダムにたどり着いた─富野さんは大学を卒業してすぐに手塚治虫のプロダクション(虫プロ)に入りましたが、どんな夢を?ロケット工学に興味があったのですが、受験で工業高校に落ちたんです。工学系に行けなかった挫折は大きかったですね。じゃあどうしようかとなって、就職したところがテレビマンガの仕事だったわけです。だから僕は純粋に文系の人間じゃない。一方で映画のカットを積み上げていくことはかなり理詰めの仕事で、文系の仕事じゃありません。手塚治虫は当時、東映動画で映画の総監督もやっていたし、それに僕は『鉄腕アトム』のファンでした。アトムに惹かれたのはまずその“21世紀感”の未来志向の部分。手塚作品には正統的なSF作品があり、ドストエフスキーなど文芸作品をマンガ化した作品もあって「マンガ家でなく作家なんだ」と理解していました。他のマンガとはちがう文化論が香る、アトムにはそれがありました。入社当時、アトムが放送2年目で、スケジュールは地獄でした。一年間で毎週、もう50本ぐらいやってるんですから、原作はほとんどオンエアされてしまったために、オリジナルで毎週作っていく状態でした。だから僕のような新人はそこが付け目だった。脚本を書いたら、内容関係なく絶対に採用される。毎週話が消費されていく段階で、ホームビデオもなかった時代だから、一回オンエアされたらもうこっちのものだ。だったら自分でどこまでアトムを書けるのかな、という勝負を賭けました。本邦初のテレビアニメ、130話以上ある中で、僕の脚本が数話まぎれ込んじゃっているのは、強引に仕掛けたからです。そしてまた、絵が描けないわけですから、演出家でしかいられないのですが、物語を提供できる立場にいるわけ。その「演出」っていう考え方を、アトムの現場でわけもわからず2年半ぐらい、シナリオを書きながら、他人のシナリオも絵コンテ(※)に書きながら、スタジオでの演出作業もしながら身につけたものっていうのは、26

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