KOBECCO(月刊 神戸っ子) 2019年4月号
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私の父は、大正13年、当時の東京大学卒業時、平生先生からスカウトされ、旧制甲南高等学校で実験物理の教鞭をとっていました。私は直接、先生から教えを受けた立場ではありませんが、父はとてもお世話になり、また先生の考え方に共感する部分がたくさんあったのだと思います。昭和13年、阪神大水害が起き、建てたばかりの自宅が被害に遭って困惑していところ、平生先生は親身になって相談にのってくださり、現在の岡本9丁目の土地を紹介いただきました。感謝しております。平生先生ご自身が勉学費用に苦労された経験から作られた奨学金制度「拾芳会」会員として、父は昭和25年に大阪大学に移ってからも交友関係を続けておりました。昭和50年、父の死後、私は事務局のお世話をさせていただき、他の二世様と親睦を図り、平生先生のご命日の11月27日には毎年そろって、墓参りをしております。平生先生は「人生三分論」を仰っておられました。私は在学中、文武両道を教わり、野球や運長久を祈られたとのことである。忘れ得ぬ一齣(ひとこま)。19年秋、私達尋常科2年の出番。勤労動員、尼崎住友プロペラ工場へ、お国の為と高揚した気持ちも早朝からの旋盤作業、雑穀混じりの臭い丼飯、恐怖の空襲等ですっかり萎縮した。平生校長の教えが人生で生かされた事28年、学業を終え就職する。当時企業は軍隊経験者、引揚者、転職者等多数が混在。上司に媚びる輩も散見する中、自己の業務に励み同僚を助け新入の私を熱心に指導されたT兄が私の転勤時に一言、「私は甲南尋常科の入試に滑ってね、ハッハッハー」と、校長の武士道精神の真髄を垣間見た。「人生三分論」の教え昭和33年甲南大学経済学部卒業 正田 日出夫さんの配慮の様。同医師の診察から始まって1ヵ月足らずでの慌しい受験先変更がその後70余年、私の人生を充たしてくれ、ペンを執る次第です。平生校長18年4月、入学式での校長訓話は聞き難く、更に長年の歳月が私の記憶を消し、訓話の内容を忘れたのが正直なところ。後日、校長関連の書物、先生の指導、先輩友人との交流から校長の甲南教育精神の一端に触れる昨今である。繰上卒業・学徒出陣・勤労動員入学後程なく高等科3年の繰上げ卒業式、続いてのパーティーで8年以上、中には二桁の在学年数を豪語して甲南を懐かしむ多士済々、戦時下穏やかな校風の余韻を楽しんだ。続けて高等科文科生の学徒出陣、壮行式後学校を去る先輩隊列を見送っていた後輩が突如正門へ走り続く者多数、後は何か虚しく淋しい気配が漂っていた。平生校長は出陣学徒17名に自著の入った絹のハンカチを贈り、武48

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