KOBECCO(月刊 神戸っ子) 2019年4月号
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で、経費が僅かですんだ。2)作業時間が半分になったので、残業はなくなった。3)工場内の酷熱環境は改善された。4)燃料は半分になった。この技術は忽ち醤油業界全体に広がりました。個性を磨いた結果でした。甲南ラグビー部の思い出旧制甲南高校23回理科卒業 大島 純義さん旧制甲南高等学校において、平生釟三郎先生は人格の修養とともに健康を重視されて、生徒はいずれかの運動部に所属することをすすめられた。そのために設立当初から運動部の活動は盛んで、全国でもっとも生徒数の少ない高等学校でありながら、多くの種目でインターハイの出場常連校であった。特にラグビーは甲南の校技のように扱われていた。私がラグビーを始めた動機は至って簡単。ある土曜日の午後、甲南のグラウンドでラグビーの試合を見て、こんな男らしくて面白いスポーツがあったのかと感激し、早速に入部させてもらった。素晴らしい先輩方から、手取り足取りラグビーの魅力を教え込まれた。昭和十五年のことであった。細くて体力のなかった私が、それから大学卒業までラグビーを続けられたのは、このときの先輩諸兄のご指導のお蔭だと感謝している。昭和18年頃から次第に戦火は激しくなり、工場動員や空襲などでまったく練習もできずに、グラウンドはイモ畑となってしまった。やがて8月15日の終戦の日を迎えた。我々は早速にグラウンドを復旧し、9月早々から練習をはじめた。栄養不良と空腹を抱えていたが、それでも長い間中断していたラグビーをやりたいという一心で、毎日グラウンドへ出て練習に励んだ。昭和22年の12月には戦後の復活第一回インターハイが開かれて、わが甲南は関西地区代表に選ばれて、東京で開かれる全国大会に出場した。四高と二高には勝ち進んだが、優勝戦では成城高校に対戦し、惜しくも三対十一で無念の涙を呑むことになった。甲南で出会ったラグビーと個性尊重の教育が、「世界に通用する紳士たれ」という平生先生のご遺訓とともに、私の一生の基礎をつくってくれたように思われる。平生校長は出陣学徒17名に自著の入った絹のハンカチを贈られた旧制甲南高校25回文科卒業 赤浦 英男さん在学中の思い出甲南尋常科を急遽受験する昭和18年1月、小学6年の私がM医師の診察を受けた時、同医師は母に私の甲南受験を熱心に勧められたことを覚えている。試験当日の早朝、近所のH先輩が迎えに来られ、父と共に初めて校門をくぐる、M医師47

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