KOBECCO(月刊 神戸っ子) 2019年4月号
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は27年間の歴史の幕を閉じました。―なぜ、甲南を選ばれたのですか。私の父は、現在の川西市で園芸業を営んでおり、戦前はそれなりに裕福でしたが、戦争中は世の中が園芸どころではなくなり苦労しました。しかし父は教育熱心で、兄は旧制浪速高等学校から京都大学に進み、私にも大学までは行かそうと考えていたようです。私は川西小学校から県立伊丹中学に進むはずだったのですが、6年生の2月ごろになって担任から「神戸に甲南高等学校といういい学校がある。入試の時期が早いから運だめしに受けてみてはどうか」と勧められました。―そして、合格したのですね。合格したのは良かったのですが、3.5倍の競争率で阪神間の立派な小学校の優等生ばかり、その上、みんなお洒落で大人っぽくて、田舎からひょっこりやって来た私など、いろいろとからかわれました。でも私は腕力には自信がありましたから、いじめられっ子にはならなかった(笑)。―いわゆるカルチャーショックですね。当時、世の中は忠君愛国一色、特に私は田舎の小学校でピリピリとした雰囲気の中で育ちました。ところが甲南に来てみると全然違う。現在の大学の場所で、正門からカーブした上り坂に大きな木が茂り、見たこともないような世界で子ども心にも自由があると感じました。阪神間の明るくて気候の良い土地に平生先生が越して来られたのが甲南とのご縁の始まり。土地柄は大きく影響しています。甲南は阪神間モダニズムの申し子といえるでしょうね。徳育、体育、そして知育。勉強では競争しない―入学してからはどんな学生生活だったのですか。甲南の教育方針は人格の修養と健康の増進を第一とし、個性を尊重して天賦の才能を啓発する意味においての知育を施すこと。「徳育、体育、知育」という順番です。平生先生は武士道を重んじ、正直真っ当な人間になることを第一としました。しかも青白い秀才はだめ、体力をつけることを実践されましたから、全国で最も小規模な高等学校ながら運動部のレベルは高く、インターハイではラグビー、バスケ、陸上競技、テニスなどでは優勝の常連校でした。私も戦後はラグビーを一生懸命やりました。大島純義さんをふくめて、京都大学に進んでラグビー部で活躍された先輩方がたく太平洋戦争では甲南高等学校の多くの生徒が命を落とした43

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