那須は1921年に灘購買組合を設立した。戦後、神戸購買組合と灘購買組合は合併し、現在のコープこうべとなり、世界屈指の規模を誇る生協に発展している。平生は賀川に多大な援助を行うと共に、灘購買組合の理事に就任する。強く請われ、川崎造船再建の責務を負う社会奉仕に打ち込む平生だったが、実業界ではまだまだその手腕が必要とされていた。1931年、日本の三大造船所の一つに数えられ、神戸市民の2割が社員かその家族ともいわれた川崎造船所の和議整理委員となり、2年後社長に就き、3年近くにわたり無給の社長として同社の再建を成し遂げた。ブラジル経済使節団長を務め、綿貿易推進、日伯友好関係を深める1935年、当時の政府は、日本にとって重要な移民先であるブラジルへの経済使節団視察を企画し、団長として平生に白羽の矢を立てる。一行は4月6日、神戸を出港、10月28日に帰国するまで約7カ月にわたり現地に滞在した。その間、平生は「ブラジル拓殖組合」を結成し、綿花栽培を奨励して日本への輸出の道筋をつけた。その結果、両国間の貿易額を10倍以上に伸ばす成果につなげただけでなく、両国の共存共栄の体制をつくり、親善友好関係を深めた。文部大臣として入閣平生の人柄と手腕に政界も着目し、1936年、広田弘毅首相に請われ文部大臣として入閣。短命内閣で実現には至らなかったが、義務教育年限を6年から8年に延長するために尽力した。苦学生を支援「拾芳会」自身が官費生だった平生は、その恩返しとして苦学生に温かい手を差し延べた。1912年、5人の学生に学資を提供、その後30年にわたり、私費で返済無用の育英事業を続けた。神戸の奨学生たちは平生宅に下宿して、家族のように寝食を共にしたという。これがやがて「拾芳会」という組織となり、支援を受けた学生たちが謝恩の集いを続けている。川崎造船所の社長に就任し、見事に再建を果たす広田弘毅首相に請われ文部大臣として入閣ブラジル経済使節団の団長を務める(右から2人目)41
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