KOBECCO(月刊 神戸っ子) 2019年4月号
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まれたとお聞きしています。「神戸からこの職場が無くなってしまったら大変なことになる」と危機感を持っておられたようです。久元当時の川崎造船は日本を代表する巨大なものづくり企業でしたから、もし破綻すると神戸経済が壊滅的な打撃を受けるのみならず、日本経済が非常に大きな影響を受けると分かっておられ、使命感を持って再建にあたられたのだと思います。同時に従業員を大事にされて、社員の健康にも大変気を使いながら仕事をされたとお聞きしています。また、大正から昭和の初めに教育のバックボーンとなっていますね。国際都市神戸の有り様にも通じるものがあるでしょうね。偏った視野に閉じこもることなく、広い視野で物事をとらえ、考えて行動する。時代環境は全く違っても、今の社会に求められる教育と通じるものがあります。長坂平生先生の名言も時代を超えて生きています。「正志く、強く、朗らかに」。この三つを同時に続けられたら豊かな人生を送れると思うのですが、「朗らかに」が難しい。そして「ワンフォーオールオールフォーワン」。川崎造船の立て直しに際してもこのラグビー精神で臨かけて困難な時代、当時の陸軍が画策した軍部大臣現役武官制に反対され、また二・二六事件の陰の首謀者といわれた陸軍大将を難詰する手紙を書いておられます。日本が危機的状況に入っていく中、正しい方向を追い求め信念を貫かれたのではないでしょうか。長坂正にそうです。戦争回避という思いを持っておられましたね。ベースには「みんなでやっていこう」という相互扶助の考えがあったのだと思います。明治45年に私費による育英事業「拾芳会」を創設、大正10年には灘購買組合(現コープこうべ)の結成にも貢献し、昭和6年、甲南病院を創設し、誰もが受けられる医療を実現します。10年、ブラジル視察に出かけ移民の施策でも大きな役目を果たし、11年、広田内閣では文部大臣に就いています。久元その時代の社会が求めるもの、神戸が求めるものを追求されていました。平生先生の事績がしっかりと引き継がれ、市民神戸市長久元 喜造(ひさもと きぞう)1954年、神戸市兵庫区生まれ。1976年、東京大学法学部を卒業し、旧自治省入省。札幌市財政局長、総務省自治行政局行政課長、同省大臣官房審議官(地方行政・地方公務員制度、選挙担当)、同省自治行政局選挙部長などを歴任。2008年、同省自治行政局長。2012年、神戸市副市長。2013年11月に第16代神戸市長に就任32

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