KOBECCO(月刊 神戸っ子) 2019年4月号
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今に引き継がれるグローバルな視野を持つ教育長坂平生先生は2人の奥様を病で亡くされ、3人目の奥様と共に大阪から住吉村に居を移されました。これが神戸との深い縁の始まりです。当時の実業界には小学校を作ろうという動きがあり、有志の方々と共に直接参画されることになります。並大抵のご苦労ではなく、まず莫大な資金が必要です。平生先生は単に教育熱心というだけでなく、実業界に太いパイプを持ち、その人柄が知られていたがゆえに、伊藤忠兵衛さん、安宅弥吉さんの強力なバックアップ、ひいては実業界のバックアップを得ることができたのだと思います。久元平生先生は、教師から校長に、そして実業界の経験をされ、さらに文部大臣としても活躍され、当時の川崎造船の社長にも就任されました。幅広い分野を経験され、今で言う「グローバルな視野」を持っておられました。それが今の甲南大学の大正・昭和のダイナニズムによって登用された逸材久元甲南学園が創立100周年を迎えられますことをお慶び申し上げます。優れた人材を輩出してこられ、数え切れないほどの卒業生の皆さんが日本全国、また世界で活躍されています。同時に、戦前から現在に至るまでずっと長く神戸に根を張り、神戸経済を支え、発展に貢献いただいたことに改めて感謝の意を表します。長坂ありがとうございます。甲南学園は100年前、平生釟三郎先生によって創立されました。平生先生は武家に生まれ、維新を経て大変なご苦労をされましたが、「学びたい」という強い思いを持っておられました。奨学金を得て東京外国語学校に入りましたが、国の施策により閉校になり養子縁組をして学費を得ます。25歳で高等商業学校を卒業し附属学校で教鞭に就きます。役人の時期を経て、27歳で兵庫県立神戸商業学校の校長に就き立て直しを図ります。その後、東京海上保険に入り実業界に身を置くことになります。これらは全て高等商業学校長の推薦によるもので、「この若者は将来日本の役に立つ」と見抜いておられたのでしょうね。久元20代で校長に就任され、30代では実業界でばりばり活躍されたのですね。この時代の日本にはいろいろ問題がありましたが、一つ言えるのは官民ともにダイナミックな人材登用をしたということです。平生先生はその典型だと思いますね。重要なポストに自分から就くことはできませんから、若手でも、その才能を見抜き、抜擢した方がいるわけです。教育界、実業界、官界、政界など幅広い分野で若い頃から活躍できるチャンスと経験に恵まれ、その能力を発揮できる、このダイナニズムを今の日本の社会は失いかけているのではないでしょうか。36年間、公務の世界だけで生きてきた私などは、アカデミックなこと、民間のことが分からず恥ずかしい思いをしています(笑)。31

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