KOBECCO(月刊 神戸っ子) 2019年3月号
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213していくが、全員が辞退。末席の乾氏に「校舎問題でも反対の筆頭だし、若いのだから君が引き受けるべきだよ」と。こうして、「廣野ゴルフ倶楽部再興」という大命が下された。早速、廣野の実地踏査に向かった乾氏は、その変わりように目を疑った。フェアウエーは一面芋畑化し、18番ホールに向けて一直線の滑走路が走る。橋が落ち、5番ホールから向こうへは渡れない。クラブハウスのガラスは一枚残らず割れ、不法占拠の小屋がそこかしこに建てられている。「とにかく、これ以上の荒廃から守らなくてはならない」。折しも、新円切り替え1年目。世相を反映し、資金集めは難航する。何とか会員一人当たり5千円程度拠出の約束を取り付け、復興工事を始めてみたものの、これだけでは到底足りるものではない。ここで、戦後の関西経済をけん引した経営者としての乾氏の手腕がものを言った。今では当たり前になっている法人会員制を考案し、復興資金を集めたのだ。苦労しながらも、当時の有力会社10社余りの入会を得て、1948(昭和23)年6月、9ホールを再開させた。同年9月に廣野ゴルフ倶楽部理事長に就き、翌年、18ホール全面開場までこぎ着ける。その後、ゴルフは急激に盛んになり、旧メンバーのほとんどが顔をそろえ、新入会員も増大した。乾氏は、会員に負担をかけることなく、プレーを邪魔することなく5年の歳月をかけ、「アリソンの図面通りに復元する」という信念を貫いた。こうして、乾氏の身を挺した尽力とリーダーシップの下、廣野ゴルフ倶楽部は名門として名を馳せ、華やかな時代へと向かっていった。1乾氏の功績を讃え、胸像が建てられている。今も静かに廣野ゴルフ倶楽部を見守る 2法人会員を募り、復興資金を集めた 3昭和32年、クラブハウスは焼失する。現在のクラブハウスの復興にも尽力した37

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