KOBECCO(月刊 神戸っ子) 2019年3月号
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1947(昭和22)年9月、当時の川崎重工社長・鋳谷正輔氏から乾豊彦氏宛てに一通の手紙が届いた。「廣野のことで相談があるから、当社までご足労願いたい」。この時、乾氏は40歳になったばかり。倶楽部の役員ではなかったが、養父が廣野ゴルフ倶楽部の創設者の一人でもあり、呼び出しに応じた。会合での鋳谷氏からの相談内容の一つ目は、「廣野を農地に開放せよと地元から強い要望があること」。これに関しては、阻止することで全員の意見の一致をみた。二つ目は、「クラブハウスを韓国人学校の校舎としてしばらく貸してほしいと言われている」。GHQからの強い要請を受けていた鋳谷氏は役員会の空気が貸与に傾くことを願っていた。しかし、ここで最年少の乾氏が「農地解放を阻止し、廣野を再開しようとしているにもかかわらず、クラブハウスを貸与するのは矛盾している」と声を上げる。この言葉が一同の意見を代表していた。三つめは「代表取締役の後任者を決めてほしい」。鋳谷氏は出席者を次々と指名廣野ゴルフ倶楽部の戦後復興に尽力した乾豊彦氏戦後復興に尽力した乾豊彦氏戦後、廣野ゴルフ倶楽部の復興に尽力した乾豊彦氏胸像と共に乾氏への感謝の意が記されている36

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