アリソンはゴルフ発祥の地として知られる「セントアンドリュース」のエデンコースを手掛けたセクレタリーをしていたが、同学部の先輩にあたり、当時すでに設計家として超多忙な日々を送っていたハリー・コルトの助手として働くことになる。1918年から22年にかけて、コルトのデザインを基に中心的存在となって完成させた、世界ランク1位と称されるパイン・バレー・ゴルフ・クラブに携わったことがアリソンを設計家として大きく飛躍させた。そして、COLT.ALISON&MORRISONLtd.を設立し、コルトのパ―トナーとしてサニングデール、セントアンドリュースのエデンコースなど、英国・米国で多くの名コース設計を手掛けた。自然を生かしながら、華麗で過酷なラインと戦略的な18ホールが、世界のゴルフコースに誕生することになる。そのころ日本でもようやく本格的なコースを造ろうという声が高まっていた。東京ゴルフ倶楽部の朝霞移転にあたり、本場の一流設計家招聘を打診したところ、「この人を置いて他にいない」と紹介されたのがコルトだった。しかし既に高齢で、元来船旅を嫌ったといわれるコルトは1883年、英国ランカシャー州プレストンで生まれたチャールズ・ヒュー・アリソンは5歳のころからゴルフに熱中し、腕前はスクラッチプレーヤーだったといわれるほど。オックスフォード大学時代にはケンブリッジ大学との混合代表チームのメンバーとして米国に遠征し6勝無敗の成績を残すなど、さまざまな偉業を達成している。造園学部を卒業後、ロンドン郊外バッキンガムシャーにあったストーク・ポージス・ゴルフクラブで日本のゴルフ近代化とC・H・アリソン歳のころからゴルフに熱中し、腕前はスクラッチプレーヤーだったゴルフ近代化とC・H・アリソン34
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