昭和38年9月、ジャック・ニクラス来場昭和33年10月、ジャッキー・パーク来場昭和12年10月、ジーン・サラゼン来場高い評価を得て、廣野ゴルフ倶楽部の会員数も年々増え、開場5周年記念が盛大に行われます。華やかな時代を迎えますが、その後日本は太平洋戦争に突入し、ご多聞にもれず廣野ゴルフコースも昭和19年6月1日に閉鎖されます。戦時農場に徴用され、さらに川重の明石飛行場が爆撃を受け、当時の社長の鋳谷さんがみんなの同意を得て、3番、8番、さらに7番、6番を通って、10番、18番のコースをつぶして平らにし、滑走路を造りました。飛行機が飛ぶことはなく昭和20年の終戦を迎えます。佐井 昭和22年9月、鋳谷さんに呼び出されたのが乾豊彦さんです。鈴木 コースを農地として開放するか、クラブハウスを在日韓国人学校の用地として貸与するかを決めるにあたって、役員でもなく、まだ若い乾さんが、鋳谷さんの“ツルの一声”で後任として廣野ゴルフ倶楽部再興の大役を担うことになったのです。それからの苦労は大変なものでしたね。佐井 アリソンの図面があったからできたことでしょうね。図面は今でも廣野ゴルフ倶楽部に残っていますよ。それを見ながら、まず昭和23年にインの9ホールを再開、24年6月には全コースが再開されます。乾さんもゴルフはとても上手かったのですが、自分の最も良い時期をゴルフ場再興に捧げたのです。ボールを打っていれば、もっと楽しめて上手くなっていたでしょうにね。森本 この時のグリーンは高麗芝で再興しましたが、昭和63年にベントグリーンに戻しています。鈴木 その4年前、パインレークゴルフクラブが西脇に関西初のサンドベントを造っています。乾さんは何人かに視察に行かせ、「ここでも出来る」という結論に達し、ベントに戻す決断をします。佐井 高麗はどうしても冬に枯れてしまいます。温暖化の今と違って当時の三木はとても寒かったですからね。ベントのほうが冬は快適にプレイできます。鈴木 昭和7年の開場、戦後28
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