KOBECCO(月刊 神戸っ子) 2019年3月号
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昭和5年頃、実地検分を行う写真が残るできる」と確信します。ところが、あまり景気の良い時代でもなく計画はなかなか進まなかったようです。半年ほどたった頃、東京駒沢のゴルフコース、現在の東京ゴルフ倶楽部の朝霞移転に際し、設計のためにチャールズ・ヒュー・アリソンが東京に来ました。当時の三井物産ロンドン支店長が呼んだという話です。そこで高畑が代表して東京へ出向き、廣野の設計と茨木の東コース改造、鳴尾のコース拡張を依頼します。佐井 高畑はすごかったね。皇太子時代の昭和天皇にゴルフを教えた人、ヘッドカバーを考えた人です。ゴルフクラブセットが車より高い時代ですから、濡れたら大変、傷付いたら大変だと(笑)。アリソンに設計を依頼財界人に建設への機運高まる鈴木 その高畑がアリソンに、東京での仕事が終わってから神戸に来てもらい、この土地を見てもらったんです。そしてオリエンタルホテルに滞在した2週間でアリソンは18ホールのレイアウトを描き上げました。日本のゴルフ発祥の地でグルームが設計した神戸ゴルフ倶楽部も初めは4ホール、古くは根岸、仙谷、箱根、旧軽井沢、それまでのコースはどれも短かくて、アリソンが日本に来て設計したのが、新しいゴルフ場のスタートだったのです。森本 新しいボールやクラブが普及して主流になり、飛距離が伸びゴルフ場だけでなくゴルフ自体が変わり始めていた時代ですね。佐井 ハリー・コルトとアリソン、アリスター・マッケンジー、この3人から近代ゴルフが始まったといえますね。鈴木 初期のアリソンは米国での仕事が多かったのですが、後にほとんどがアメリカンスタイルに改修されています。一方、コルトは英国内で幾つもの名門コースの第一回目の改修をしています。船で移動するのが嫌いで東南アジアには来なかったとか。それで日本へもアリソンがやって来ました。ここから一気に神戸の財界人にゴルフ場建設の機運が高まりました。舞子ゴルフ倶楽26

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