KOBECCO(月刊 神戸っ子) 2019年2月号
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―バレエは小さい頃から?自分でやりたいと?幼稚園の発表会で体を動かしているととても楽しそうなのを見て、バレエが向いているかなと母が発表会に連れて行ってくれました。3歳だったのであまり覚えていないのですが、自分からやりたいと言ったようです。ピアノも習っていましたが、バレエのほうが楽しくて、先輩たちのビデオを毎日見ていました。―その頃から宝塚を目指していたのですか。高校生になって宝塚歌劇を初めて知りました。文化祭で舞台を見たんです。女子高でしたので、先輩たちが男役、女役で、「いいなあ」と憧れ、そこからのめり込みました。受験したいと両親に話すと、「遠くの厳しい学校へ、なぜわざわざ行くの?」と反対されましたが、合格してからは応援してくれ、高校を卒業して宝塚音楽学校に入学しました。―入学してからは厳しかったのでしょうね。そうですね、規則やしきたりがたくさんありとても厳しいです。日々〝地獄〟のような生活(笑)。でもその先に〝天国〟のような夢の世界がある。それが宝塚だと思います。―厳しい音楽学校生活が2年、卒業後、華やかな舞台に立てるのですね。希望通り女役で雪組に配属されました。舞台に立つようになっても、そこから本格的に成長していかなくてはならないのですから厳しいですよ。宝塚では7年目までが新人ですから。―退団を決意されたのは、いつ、なぜ?雪組トップに壮一帆さんが来られた時、衝撃を受けました。人間的にとても素敵な方で、失敗を恐れずいつも前向きに突き進み、みんなを引っ張ってくれる。私が宝塚で学ぶべきことはこれだったと気づきました。壮さんが退団される時に、私もやめようと決め、それが7年目でした。―次のステップは決めていたのですか。ちょうどその頃知り合った主人と結婚を決めていました。退団後は舞台や芸能界で活躍されている先輩方もたくさんおられるのですが、私は「やり切った」と思っていましたので、全てやめて次は「専業主婦をやりたい」と。―しばらくは主婦業に専念されていたのですね。1年、もたなかったかな。あんなに毎日体を動かしていたのに、ちょっと物足りなくなってきて…。でも、今もちゃんと主婦もやっているんですよ(笑)。―ビューティーチャームアドバイザーに至った経緯は。「何かやりたい」と主人に相談したら、「自分を美しくみせることを宝塚で学んできたのだから、今度はそれを誰かに教えてあげたらいいんじゃないかなあ…」と、「やったらいい!」というわけではなく、独り言のように。私にしかできないことをやりたいと思っていたので、それを聞いてワクワクしてきました。―宝塚時代にいろいろなこと37

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