KOBECCO(月刊 神戸っ子) 2018年11月号
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の年の6月15日、ハワイ・キャルバリー教会で結婚式を挙げました。美香 渡辺母は神戸で女傑として知られている方で、私にとってもボスという存在でした。何でもハッキリおっしゃるのですが、それが私にはよかったです。その渡辺母が、海を仰ぎ見る教会で「親の役目を果たせた。パパを思い出して涙が出た」と話していました。真二 六甲アイランドで新婚生活が始まりました。付き合った期間が短かったので、ゴルフや旅行、JAZZライブに行って、二人で過ごす楽しい時間でした。新婚生活半年で、震災。夫婦の劇的なドラマが始まった―恋人同士のような新婚生活ですね。真二 ところが年が明けた1月17日、阪神・淡路大震災。そこから夫婦の劇的なドラマが始まりました。幸い自宅は無事で電気もすぐ復旧したので、翌日、御影に住む母を呼びましたが、島内のガスタンクが危険だと。ちょうどその時、神戸市から、外国人の方を神戸シーバスで脱出させたいので協力してほしいという要請もあり、3人で、船で本社に向かうことにしました。8人乗りの小さな船に乗り神戸に向かおうとしたとき、大阪に向かう船を見て母が突然、「美香ちゃん、あなたは大阪に行きなさい」。美香 私はびっくりして躊躇しました。「一緒に大阪へ行きましょう」と涙ながらに言ったところ、渡辺母の答えは「ありがたいけれど、私の肩には三百人の社員とその家族の生活がかかっているのよ」。会社のトップの宿命とはこういうことなのかと胸に刻んだ言葉でした。そして、母はただ泣くだけの私の背中をポンと押し、私は隣の船に乗り移りました。真二 そこからは涙の別れでした。遠ざかって行く船。飛行機と違って、船はずっと航跡が見えなかなか視界から消えていってくれない…。本社に着いたらすぐ目の回るような展開で、その翌日早朝から外国人脱出用の船、その後は市民の足となる船を出し続けることになり寝る間もない日々が続きました。あの時、母が美香を大阪に行かせる決断をしてくれたことに感謝しました。美香 その船が、あの思い出の地・天保山に着いたんです。そして2月の初め、また天保山から神戸に向かう船が出て、今度は父と涙の別れ。父が未だに船の別れほど辛いものはない、と話します。両親は、社員分の食糧と水、薬を持たせてくれました。真二 セミロングだった髪を今のようなベリーショートにして、覚悟を決めて帰って来てくれたんだと思うと、本当に嬉しかったですね。季節のイベントも人気の「神戸シーバス ファンタジー号」36

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