女学校(後の神戸高校)の2年生に転入したが、やっと自分にあった学校に来たと水を得た魚のようにのびのび勉学に励み体を鍛えた。しかも「国家主義的な要素があったとすれば、それはこの神戸女学校時代に培われたのかも」と述懐している。多感な少女はこの「神戸秘話」の初回で紹介した田中銀之助に憧れて音楽の道に進みたいと思ったり、日本画の絵描や歴史の先生にもなりたいと考えたり、気持ちが定まらなかった。そんな時、「英語を武器とすれば世界中どこへ行っても世の中がどんなに変ろうとも役に立つ」と母に助言され、日本女子大英文科に進学した。卒業後はアメリカへ5年留学、帰国すると九州帝大の助手から日本女子大の教授に、そして戦後は参議院議員にと、当時の女性としては類まれなエリートコースをまっしぐらに進んできた。彼女には並はずれた純粋さと、視野の広さ、そしてそれに伴う行動力が備わっていた。戦後初めてソ連の鉄のカーテンをくぐり、中国の竹のカーテンの向こうを見てきた婦人議員として高良とみはその名を知られているが、戦前においてもドクター・オブ・フィロソフィーの肩書をもつ心理学者として、常に社会の第一線で活躍していた。「私が尊敬する人はガンジーとタゴール、親友はネルーと李徳全女史」と言ってはばからない彼女のスケールの大きさは、日本女性の中では稀有のものだ。彼女の足跡は世界中にわたり、しかも心の交流を重ねて世界中に友人があり、師がいる。あたかも隣の家を訪問する気楽さで諸外国を訪ね歩く。たとえどんなに著名な相手であろうと臆せず自分の意見を堂々と述べ、意見を交換する。いったいこの行動力はどこからくるのか。そしてその行動力を支えた思想の根幹とは何であるのか、もう一度たどる必要があると考えている。※敬称略※「非戦を生きる」高良とみ自伝(ドメス出版)などを参考にしました。高良(こうら)とみ明治29年(1896)~平成5年(1995)。富山県出身。兵庫県立第一神戸高等女学校~日本女子大学と進学し、米国留学の後、九大医学部助手を経て日本女子大教授、帝国女子医専教授などを歴任。ウィーン国際婦人平和会議(大正10年)では世界平和の母ジェーン・アダムスやロマン・ロランと出会う。大正12年には来日したジェーン・アダムスの通訳として同行。昭和10年には上海で魯迅と面会。戦後、昭和22年民主党から参院全国区に当選、緑風会に移籍して2期12年務める。昭和24年世界平和者会議に出席し、以後、国際平和運動に奔走。同年には戦後はローマ法王に会い戦犯の減刑を請願。昭和27年にはモスクワ世界経済会議に出席(グロムイコ会見、スターリンへの手紙「数十万の日本の息子達を探しに遠くシベリアへ来た母の一人、高良とみ」)。同年日本人として初めて新生中国を訪問し、第一次日中民間貿易協定を締結。昭和28年日本婦人団体連合会(婦団連)を結成し、副会長となる。インドの詩聖タゴール(アジア初のノーベル文学賞受賞者)との出会いが彼女の人生に革命的変化を引き起こした。著書に自伝「非戦(アヒンサー)を生きる」、タゴール詩集「ギタンジャリと新月」など。平成14年「高良とみの生と著作」(全8巻ドメス出版)が刊行。勲二等瑞宝章受賞(昭和47年)。家族:母=和田邦子(神戸の婦人運動の先駆者)夫=高良武久(慈恵医大名誉教授)長女=高良真木(洋画家)二女=高良留美子(詩人)1952年、北京の西苑空港にて出迎えをうける日本女子大学成瀬記念館 所蔵日本女子大学校教員時代の高良とみ15
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