KOBECCO(月刊 神戸っ子) 2018年9月号
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作家の豊岡佐一郎やシェイクスピア研究家の坪内士行(坪内逍遥の養子)がいたことから演劇熱が芽生え、大学の演劇研究会に参加。芝居に熱中するあまり水道局は欠勤続きで、ついにはクビとなる。そこで大学も中退して本格的に役者の道を目指し巡業などをするが、結果は大赤字で失敗。志村の人生の転機は、この行き詰まりから生まれた。生活できず、友人で後に東宝撮影所長になった森田信義の世話で「近代座」に入り職業俳優として舞台に出演。しかし同じような芝居が続いて気持ちや生活態度は荒み、演技も惰性になっている自分に気付き、巡業先で一座を離れ「新選座」などの舞台に立つが、芝居の世界は景気が悪くなる一方で、舞台で鍛え上げた実績を生かせると思い、この頃主流になり始めたトーキー映画へ転向した。志村は1937年2月に見合いをし、結婚は11月と時間がかかっている。相手は8つ下の山田政子。神戸元町の老舗料亭「松源」を営んでいた父の死後、はじめて経験した母との借家暮らしは須磨区権現町の家だった。神戸市森高等女学校(現・神戸学院)を卒業し神戸大丸に勤めていた。志村は「いまの女房が、ああいう変わったのが見合の相手に出てきたんですよ」と照れながらまわりに語っていた。32歳と24歳の二人の間を手紙が行き交う。婚約時代の往復書簡の文面からは彼の独特の思いやりが伝わってくる。嵯峨野で結婚生活をスタートさせ、志村が没するまでとても仲のいい夫婦だった。夫人は天真爛漫で芯が強く、誰もが人間性に魅了された。子どもがいなかったこともあり、妻を残して逝った志村はさぞ辛かったことだろう。「お前にはえらい目にあわせた…もう4、5年楽しんでからおいで」と志村に言われた政子夫人は、2005年に92歳で大往生を遂げた。夫人の著『美しく老いたし』では高倉健がまえがきを書いている。【つづく】※敬称略※神戸新聞社編『わが心の自叙伝(映画・演劇編)』(神戸新聞総合出版センター 2000年)、薄地久枝『男ありて 志村喬の世界』(文芸春秋 1994年)、志村喬記念館広報などを参考にしました。志村 喬(しむら たかし)映画俳優1905年、兵庫県朝来郡生野町(現在の朝来市)生まれ。旧制神戸一中などを経て関西大学予科へ進学、同大学専門部二部(夜間)へ転部、大阪市役所に勤務しながら通学していたが、演劇に打ち込み、中退。近代座を経て、30歳で新興キネマに入社。マキノ、日活、松竹と移り、東宝へ。ここで黒澤明監督に出会い、「姿三四郎」「わが青春に悔なし」「酔いどれ天使」「羅生門」「七人の侍」「生きる」「用心棒」「醜聞」「隠し砦の三悪人」「蜘妹巣城」「天国と地獄」「赤ひげ」「影武者」など、ほとんどの黒澤作品で重要な役割を果たす。ほかにも溝口健二、伊丹万作、吉村公三郎といった名監督らの傑作に数多く出演し、渋い役回りの名優として評価は高い。ほかの出演作は「ゴジラ」シリーズ、「男はつらいよ」シリーズ、「華麗なる一族」「動乱」「天平の菅」など。1982年、76歳で死去。写真/志村喬 国立映画アーカイブ所蔵23

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