KOBECCO(月刊 神戸っ子) 2018年9月号
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日本が誇る名優志村喬たかしと政子夫人連載 神戸秘話 ㉑瀬戸本 淳(せともと じゅん)株式会社瀬戸本淳建築研究室 代表取締役1947年、神戸生まれ。一級建築士・APECアーキテクト。神戸大学工学部建築学科卒業後、1977年に瀬戸本淳建築研究室を開設。以来、住まいを中心に、世良美術館・月光園鴻朧館など、様々な建築を手がけている。神戸市建築文化賞、兵庫県さわやか街づくり賞、神戸市文化活動功労賞、兵庫県まちづくり功労表彰、姫路市都市景観賞、西宮市都市景観賞、国土交通大臣表彰などを受賞文・瀬戸本 淳 (建築家)日本が誇る名優で邦画の黎明期を支えた志村喬。生涯で出演した映画は「姿三四郎」「酔いどれ天使」「野良犬」「羅生門」「生きる」「七人の侍」など黒澤明監督の作品21本を含め443本にものぼる。かつて銀山で栄えた全国屈指の鉱山町、生野町(現・朝来市)で1905年、志村喬(本名・島崎捷しょうじ爾)は、土佐藩士の家系・島崎家に父・毛もとめ登女、母・喜きよ与の次男として生誕。きょうだいは男3人、女4人の7人で、父は銀山の冶やきん金技師だった。小学校を優等で通し、兄の敏夫を追って神戸一中(現・県立神戸高校)へ。後に横浜ゴムの社長を務めた敏夫は21回生。志村は23回生で、私の時代の名校長・高山忠雄と同期だ。青谷の下宿家に敏夫と一中の英語の先生(後に外交官になる三浦和一)と3人で住み、3人でよく摩耶山に登り、一中名物「立ち食い」も経験している。その後、父親が宮崎に単身転勤となる。志村は軽い肺病のため2年進級が遅れ、母や兄弟と共に父のもとに合流し、延岡中学へ転校。在学中は泳ぎ、ボート漕ぎの名手として知られたほか、同人雑誌に加わって詩も寄稿していた。卒業後、関西大学予科に入学するが、父の退職で学資援助が得られなくなって夜間の専門部英文科に転じ、大阪市水道局の臨時職員として生計を立てる。この頃、講師に劇22

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